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蘇州夜曲の原点を求めて

2018/05/14

蘇州に空転ー「蘇州夜曲」の虚と実


君がみ胸に抱かれて聞くは
夢の舟歌ーーー
水の蘇州の花散る春はーーー


オールドエイジには懐かしい蘇州夜曲」は昭和15年8月に発表された。
映画の主題歌である。
 
 中国大陸での戦争が拡大を続け、軍国主義一色の重苦しい空気が満ちていた当時の日本。もはや手の届かぬ彼方に失われた郷愁のロマンを偲び現実との落差を感じ取っていた大衆の心を虜にしたのである。

 時は奔流となって流れ21世紀の現代。
いま世界は米中2つの大国に支配されてしまった。その一方の雄に成長し世界経済を牽引する巨大国家へと変貌した現代中国。
かって蘇州は多くの日本人には女優李香蘭の放つ妖しい美貌と歌に様々な思いを託した想像の街であった。
私は小学校1年生だった。

あれから80年、今の蘇州はどのような姿を見せているのだろうか。 上海から新幹線でわずか30分。
まずは巨大な駅舎との対面。
マンモスの肋骨を思わせる大天井と広い空間。
いまや世界中の観光都市で出会う無機質な物理的光景も蘇州の一つの顔だ。

過去の幻想を胸に旧市内へ。
「蘇州夜曲」に歌われる水路の幅は狭く、一直線に伸びた一本の川である。
両岸には土産物屋の家家がびっしり並ぶ。 中国特有の赤いランタンがごたごたと軒先に連なり埋め尽くす。風に大きく揺れながら。
そんな商店街はいつも大勢の観光客でごったがえしている。
息抜きは中世に建立された色あせた朱塗りの古いお堂。背後の寺院の伽藍が生い茂る緑の樹木越しに顔をだしている風景だ。
  金銀細工をほどこした派手な土産物の数々が店の奥まで陳列されている。大店、小店どれも同じようだ。
しかし時たま顔を見せる高級店の大きなガラスウインドウには高価な絹織物のドレスが優雅なカーブを描き、漆と金粉で描かれた名画が鮮やかな二つ折り屏風が印象深い。
街のほぼ中央まで歩いてくると円形の欄干橋が。
石段の角度はきつい。
映画の中で二人の主人公が再会したゆかりの橋?
映画のシーンはどうだったのだろう。
周囲の柳も伸びきった枝先を川面に垂らしている。
  20メートル幅の両岸に連なるホテルやレストランの窓には観光客の群れ。 川の水は淀んでゆれ動く漣が太陽の光を鈍く反射している。
原色の真紅や黄色の長方形の観光船の屋根も川の風情に溶け込んでいる。
古い白壁と赤瓦屋根を背に佇んで人々は何を感じているのだろうか。
西の空一面を掃いたような薄雲がひろがり、差し込む太陽の光を受けた 岸辺沿いの木製の椅子に腰を下ろしてしばし目をとじて「蘇州夜曲」の原点。
見えた?見えない?

 見事に区画整備された美くしい広大な駅前広場。
駅正面には⒉つの大型超高層ビルが威容を誇りそのはるか先には上海で見慣れた高層ビルが林立している。
上海から蘇州を走る新幹線沿いも同じ風景だ。
線路沿いの中高層ビル群は比較的整然とした構成で次々に現れ、短い時間帯で低い潅木が断続的に続く。
  蘇州は今や中国でも有数の近代的な都会である。

 誇りを心のそこに秘め肉の落ちた胸をぐーっと張れる「おじさま」と言われる人生の最後の境界線は75歳。
 アインシュタインは言っている「人類の進歩の中で霊的側面が進化すればするほど、真の宗教性に通じる道は生の不安、死の不安の中にはなく、合理的な知識のあとの努力のなかにあると」。
  「ナブッコ」で歌われる「行け、わが想いよ、 黄金の翼に乗って」の黄金の翼なみの最新鋭のボーイング777の翼は正確なナビゲーターシステムを駆使し最短2時間15分で上海と羽田を結ぶ。

  作詞家西条八十氏は青く清く澄み切った水路の岸辺で情熱的に抱擁し運命にもて弄ばれる悲運の男女の像を、あるいはその姿に自分を重ね合わせ「蘇州夜曲」を生み出した。迫り来る軍靴の音を背に感じながら。

しかし事実は全く違うから驚きだ。
映画の脚本を読んであの胸に迫る悲恋の歌詞を書き上げたとは。一歩も蘇州の地を踏むことなく。

 75歳を過ぎて、自分が長年抱いてきた「蘇州夜曲』誕生の秘話が存在しないとは相対性原理に反してるよ。 イマジネイションとリアリティティーの橋渡し役を見事に果たした西条先生の職人技に脱帽。
註;蘇州夜曲関連文献等はネット上で検索)

マドリリッド美術館巡り-2

2017/08/15
マドリリッド美術館巡り−2(ギャラリーに絵画を掲載)

 お奨めの第1は王宮付属武器庫。
王宮の建物と繋がってます。
炎天下の歩きは少々きついですが是非とも足を伸ばす。
皆さんは宮殿だけ見物しておしまいですが、スペイン王国発祥の歴史を知るにはこの武器庫を訪れル事が必須です。
 当時を忠実に再現したスペインの騎士たちの騎馬像を見るといかに彼らの体型が小さかったかに驚くことでしょう。武具でプロテクとされてる馬も大変。
一見は百聞にしかず。ロバに跨った勇者が王侯貴族の実像?
銅の兜は顔全体を覆いさらに手足の先までの鎧をまとった騎士たち。立派さよりも同情を引く。こんな重装備で長剣や槍を馬に乗って振り回せるの?
彼らが幾多の戦陣をくぐりぬくけた武勲に輝く騎士達と言われてもねー。

10から12世紀末のスペイン人は身長は150数センチ前後だった。
まあ当時の栄養状態を考えれば背丈が低いのも当然か。
実物大に再現された当時の人馬に囲まれると歴史の実像がよくわかる。
ヨーロッパ諸国の美術館の壁を飾っている威風堂々たる王侯騎士たちの平面的な名画だけ見ていても歴史の真実は見えません。
中世ヨーロッパの戦闘絵画を再認識し直すいい機会。

 第2のおススメははセレナソフィーア皇妃芸術センター。
外観がすっかりモダーンなビルに変わて場所が少しわかり難い。
建物内部の構造もスマートで便利になり、現代建築としての偉容を誇ってます。
絵画ではやはりピカソでしょう。生で見るピカソの絵画のすべてが迫力満点。
ニューヨークのメトロポリタン美術館から返還された本物のゲルニカの絵には本当に圧倒されます。
ここではその他私たち日本人には馴染みの薄いあまりよく知られていない多種多様のヨーロッパ絵画を堪能できます。
 すべて見終わったら,ここがスペインかぁと思わず唸ってしまう斬新なデザインの別館1階にあるレストランで休憩しよう。とても広い内部空間にびっくり。
広い通路、トイレヘの通路幅も6メート超えて快適。日本の美術館もこのくらいのスペースが欲しいけど、なんせ東京は、平米1000万円の地価の上にたってるので無理だけど。

 第3はティッセン・ボルネミツサ美術館です。
プラド美術館と十字路はさんで向き合ってる大きな建物。
十分に鑑賞するにはたっぷり3時間の余裕が欲しい。
さすが内容が充実してる。
広く長い仕切りでヨーロッパ初期から現代までの絵画の流れが時代別に展示されてる。分かりやすく初心者のみでなく専門的知識も豊富な人々でも十分楽しめ見飽きない構成。しかしかなり歩くので足に自信のある人向き。
写真撮影も可。
撮影不可の1階特別展示室にはなだたる名画が揃っているようですが、私たちあまりその名前聞いたことない。名画って何万点あるんだ?
 さらにかなりス広いペースのある地下1階の展示物もすべて魅力に満ちていて一見の価値ありです。大変勉強になります。

見終わったあとはゆったりと正面玄関前の明るい階段状に作られたテラス席で香り高いコーヒーを青空を満喫しつつ楽しみたい。
 
 観光ツアーを利用してで行列に並ばずにプラド美術館に入館できても、館内の人混みには変わりなしです。十分な時間がとれず、決められた名画だけを駆け足で大勢の観光客の頭越しにちらりと見るだけの商業的な絵画鑑賞コースに満足出来なかった方は絶対この美術館を訪れるべきです。
膨大な作品をたっぷりと周囲の人人を気にすることなく静かに堪能出来ます。

 4位以下の美術館になると個人の好みで順位は不定。こじんまりした美術館の中ではセラルボ美術館がまあまあでしょうか。
 一般の観光コースには入ってないようですが国立考古学博物館も素晴らしいですよ。ぜひ一度訪れてみては如何でしょう。
現代科学の最先端技術を駆使して人類発祥の10万年以上に遡って全ての作品が時代別に陳列されています。古代から現代に至るまで考古学的に貴重な人類の宝である遺物の数々が見学者の目に優しく科学的に整頓されている。世界有数の規模を誇るだけあって素晴らしい。

 
 海軍博物館も海が好きな人や海戦の歴史、大航海時代に興味ある人には見逃せません。日本にはこれに似た博物館はありませんから。
無敵スペイン艦隊がネルソン提督率いるイギリス海軍に敗れたトラファルガー海戦の資料は殆ど見当たらず。故意に隠蔽?
昔の航海は人力が重要なエネルギー源。4、5階建ての多重構造物である巨大帆船に閉じ込められた人間の漕ぎ手の集団。戦闘中も船から逃れられず。

さまざまな想像力を掻き立てる大小の貿易船と戦艦の模型がところ狭しと並べられている。悪人?いや冒険家コロンブスが乗った精巧な作りの模型船もある。
最後の展示室は現代スペイン海軍が誇る大型潜水艦断面精巧な機器に満ちた内部が展示されていて、その IT化にはおどろくばかり。現代スペイン海軍の誇りと意地をみた。
ここで尽きることのない全世界の海の冒険物語を自由に好き勝手に想像力をふくらませよう。
 
 国立歴史博物館は建物だけ立派で内容はゼロ。入場無料だからしかたない。数キロ先に別館が有ってそちらに展示品があるとか。

 その他アメリカ美術館、ロマン派美術館、衣装美術館など一見に値する美術、博物館が数多く存在するのがマドリッドの特色。
 
 
豪華な超高層ビルが競りあう現代都市の景観はなく、年月を経た親しみやすい石とレンガで建てられた建築があちこち残るメインストリート。行く人々に落ち着きをあたえる豊かな緑の並木が続く。
十字路と広場には豊富な水を吹き上げるダイナミックな噴水が多い。マドリッドの街は年配者にはとても住みやすそうに感じられた。

市内を隅々まで探し回ったが電柱は一本も無し。まあ当然か。
東京はオリンピックまでに少しはどうにかなるかな?
電柱が林立する市街地は一朝一夕にはなくせない。時間の重みが必須。
数百年という豊かな歴史の産物ですから。

 過去
の東京都知事さんの歴史のなかで東京の都市景観改良に無いチエを絞った人はゼロだからしかたない。これから30年、
電柱と共存するウルトラ超近代都市トウキョウが世界でも珍しい観光の世界的遺産になる。


 マドリッドは高い青空の下に緑の並木が市内どこまでも続いてるオアシスのような都会です。まあ市内のいいトコばかり見て来たから、少々褒めすぎか。
 スペイン人は誇り高いから。特に高級ホテルでは随所に彼らのそこははかない優越感を感じさせるけど。
街の市民は親切なのも世界的に共通だけど不親切なのも結構混在してる。清潔感溢れた和食レストランと従業員の笑顔は我々日本人も仲良くなれそうだ。
日系の航空機が就航し乗り心地をよりよく改善して貰いたい。


 


 

マドリッドの美術館巡り-1(イベリア航空直行便)

2017/08/14
 マドリッドへ~~~市内美術館めぐり

 マドリッドのバラハス国際空港。ターミナルT4sは入国より帰国時の手続が大変ですよ。うっかりしてると乗り遅れる危険が高い(笑)。
始めてこの空港を利用される方は十二分に気をつけながら注意深く移動しよう。
 
 ターミナルの規模が巨大で歩く距離も長い。動く歩道が完備されていても距離がたっぷりあるから急いで歩く。やがて息切れする。
途中で誰かに英語で道順を教えて貰うのも簡単でなく難儀。
また足腰に自信がない人は時間を十二分に余裕を持ってゆっくり行動する必要がある。あちこちかなりの距離を歩かされるので。
航空会社の搭乗券受取りカウンターと出国審査はT4ターミナルで。
ホテルからはT4ターミナルまでタクシーかバスが便利。
出国審査が終ってターミナル内に入ったらすぐにT4sターミナル行きのシャトル乗場に移動する。右に曲がるか左に曲がるか間違えると大変です。
延々と歩かされてT4sシャトル乗場の階段を下りてホームへ。
シャトル電車は3分でT4sターミナルに到着。エスカレーターを上がるとそこはもうターミナルのショッピング街。
Businessクラスのラウンジはすぐ判る。まずは一休み。快適な空間。用意されてる豊富な種類の食べ物をしっかり食べておいた方がいい。
ラウンジから搭乗口までは15分はかかるので休憩は早めに切り上げて搭乗口に行って待った方が安全。
 
 今回はイベリア航空の成田ーマドリッド直行便のBusinessクラス利用した。中型のエアバスなので大型ジャンボ機に比較すると予想通り座席はぐーと狭い。縦横ともに余裕がないので苦しい。水平になって睡眠を取る際は両膝以下は狭いボックスに突っ込んで自由に動かせない。
  搭乗前に抱いていたBusinessクラスで楽々と安眠して行けるというイメージは粉砕される。また往復和食コースをえらんだが、はっきり言って落第でしょう。
マドリッド市内の名のしれた和食店は値段も比較的安くかつ味も良かったのに。特に刺身定食や寿司定食が旨いですよ。マドリッドで寿司三昧を。
 世界で最初に営業始めたというレストランが市内の繁華街にある。日本人客が大勢います。巨大な牛のステーキは3人でも食べきれない。
 元気溢れるスーパー老人3人が主役のジャズバンド。特に88才という年を全く感じさせないリーダーのクラリネット奏者。迫力満点の見事なクラリネット技法を披露してくれた。感激。
まだまだ現役で活躍するでしょう。見習わなきゃ。
満員の客が全員で興奮し酒場全体が大いに盛り上がって雰囲気も最高ですよ。
洒落れたレストランやバルなどが並ぶ商店街をあるくと乾いた空気が頬をなで気分良い。食べて、演奏聞いたあとの散歩もおすすめです。
気楽に誰でもしかも安全安心して楽しめる。
4つ星ホテルも角にあります。
この近辺に住んでもいいな。
今回、夜のマドリッドの賑やかな商店街を十分楽しめたのは情報通でアテンドのお役目をしっかり果たしてくれた魅力満点のミセスyさんのお陰でした。トラベルコで偶然に知ってアテンドお願いした。
さあ、明日から市内の8つの美術館巡りを始めるぞ。

 東京bからマドリッッドへは時間かかっても座席に余裕のある大型機のフライト便を勧めます。ヨーロッパ各地で乗り継いだ方が結果的には疲労も少ないし、機内食も味もいいので満足感もえられる。
快適な旅はなにより身体の疲労度合が少ない手段を選ぶこと。
14時間のノンストップのフライト時間に滑走路で離陸するまでの待機時間1時間プラスは結講厳しい状況ですよ。
この直行便、個人的にはおすすめしません。

日本人の脂肪摂取量

2016/08/17
平成26年度の国民栄養調査によると:

 1960年代と2010年を比較すると1人あたりの米の消費量は年間で120kgから60kgに減少。
肉の摂取量は年間6kgから30kgと約5倍に増え、更に脂質も年間4kgから15kg(農水省調査)。1ヶ月1kg、1日、33gを摂取してる事になります。

 平成 22 年、23 年の国民健康・栄養調査 で日本人 30~49 歳の中央値は25.8% (男性)、28.3% (女性)で、高齢者になるほど摂取する脂肪エネルギー比率は減少してます。
ちなみに、 日本人 30~49 歳の総エネルギー摂取量の中央値は、2,078 kcal(男性)、1,635 kcal(女性)という低さです

ア メ リ カ の USDA’s (CSFII、1994~1996、 1998)4によると、31~50 歳の中央値は、33.7% (男性)、32.8% (女性)で、日本人の脂肪エネル ギー比率はアメリカ人に遥かに比べ少ない事が明らかです。 

日本人の動物性脂肪摂取量は成人で1日平均30グラムです。
70才以上の高齢者では20gとなり、若い発育盛りの15才~20才が最高で35g、20~29才が31gです。

 さらにこのうち、飽和脂肪は20才から69才までの1日の平均摂取量は19から16gなんですね。30、40歳代の働き盛りでも20gは摂取してません。
 成人病の危険が始まる30才以後の日本人は動物性脂肪を1日30g以下しか摂取してません。飽和脂肪に至っては20g以下とは驚きです。世界的にみて、日本人は驚くべき低脂肪食の国民だと言う事がわかります。
2021年の現在じてんでみてもて低い数字ですね。 
 日本人の食生活が1945年の第2次世界大戦後欧米化したと言うのが常識化してます。
これらの数字をみて我々日本人が欧米並みの脂肪,肉類を主体とする高脂肪食,高飽和脂肪食中心の肉食民族に変わったと言えるのでしょうか。言えません。

 さらに欧米人と比較すると、日本人は70才を越えると明らかに全体の摂取カロリーも低下する傾向がみられます。
一方、欧米人はかなりの高齢になってもそのまま30代、40代の肥満型の体型を保っていませんか。

日本人は内臓脂肪が蓄積してると言われてますが、今の時代、リンゴのように突出した腹部の持主の高齢者は珍しいですね。

 70才越え、80才と年齢を重ねるごとにBodty Mass Indexの肥満比率は明らかに低下していますから。

 このBMIの肥満とする数値を国際基準に比べると、欧米が30以上を肥満、一方我が日本国では25以上と肥満の基準が5ポイントもちがうんですね。
欧米では肥満に分類されないのに日本人は肥満と認定されてる。日本人の3割が肥満と言う新聞の記事は、日本人の2割が肥満と訂正したほうが正しい。
これでは公平な国際間の肥満の比較ができるんでしょうか。
同皆さんはお考えです?
同時に脳血管障害と心大血管障害が原因の死亡率は年々低下してます。今までの疫学調査を再検討してみる必要があるようです。
栄養学の専門家はどう考えてるんでしょうか。

 また食生活の欧米化が肥満の原因とされ、心筋梗塞をはじめとする様々な粥状動脈硬化症の主たる原因と主張されている論文の根幹に関わってくるのではないでしょうか。


 

日本人のヨーロッパ人像

2016/07/18
日本人の描く一方的なヨーロッパ人像

 日本とヨーロッパは約1万年前から生活環境に差異が生まれ日本は農耕中心の炭水化物食で脂肪はゼロに近かった」、一方「ヨーロッパ」は農耕より牧畜が発達し年間に 100Kgの肉を摂取し飽和脂肪の環境にあった
 
 この文章はまさに日本人の大多数が今なお抱いている誤解に満ちたヨーロッパ観の典型です。
ヨーロッパ人のみが1万年前から現代ヨーロッパ人なみの肉食であった?
 1万年前当時、地球上に生存していた全人類はまだ狩猟採集民で食料を求めて血眼でした。 
 人類は約4万年前の後期旧石器時代になってようやく、道具使用、狩猟、言葉と抽象思考という現在の我々と同じ条件がほぼ地球上に出そろったのです。
 中新石器時代、人類は耐寒具を作り出し高緯度居住が可能となりました。
その結果、北半球の寒冷地から南アメリカ南端まで全地球上に住み着くことが可能になったのです。当然それぞれの地域特性をもった多種多様な文化圏を世界各地に生み出しました。

「ヨーロッパでの牛肉の消費量」
 ヨーロッパ人が、かって年に100キロも肉を食べていた時代があったなんて本当でしょうか。そのような事実の科学的な根拠はありません。
ヨーロッパは中世が始まった8世紀以降(もちろん古代ローマ時代も紀元前も)も飢饉は数年ごとに繰り返し発生していて(8世紀末~13世紀末は温暖期で農耕が進歩)、ことに小氷期がはじまった14世紀は相次ぐ飢饉とペストの大流行で人口が激減。その時期は肉の消費量は確かに増加(農耕人間がいなくなり、放牧以外に選択枝がなかったからです)したと言われてます。
それで年間60キログラム消費した年もあったとは言われてます。
 その後、人口が回復し農耕が軌道に乗ると肉の摂取量は以後数百年に渡って低下し19世紀初頭には僅か15キログラムまでにに落込んでしまったのです。
フランス革命は人々がパンを求めてが発生したとされています。肉なんて普段から口に入らなかったからせめてなんとかまともなパンを寄越せとなった。
 
 当時の農民像というと『彼等は粗末で貧しい生活をしている。食事は黒のライ麦パン、燕麦粥か煮たエンドウ豆。水と乳清。そうして休む間もなく朝から晩までひたすら土を耕して一日を過ごす』と英国の裕福な旅人がしるしてます。

 ヨーロッパでは大多数の農民はこのような生活を何百年にわたって送ってきたのです。ヨーロッパは中世以前も以降も常に凶作が豊作を上回り、農民は年間をとおおして豚肉のハム、 ソーセージ類すら滅多に口にできなかったのです。
ヨローパは西暦1850年ごろまで農民が国民の80%以上を占めていました。
大多数の農家では土間の中央に大きなスープ鍋を釣るし、家族全員がこの鍋で食事をしていたのです。
 少数の富裕階級の農民を除いて絶対的に多数を占める農民達は中、下層に分類され、その最下層が最大多数を占めていた社会でした。
 このように農民は19世紀初頭まで肉食とは無縁な日々を送っていたのです。
 また都市に住む市民達は(祭等に参加できる市民は選別され、都市部では厳しい階級社会を構成していた)、太陽が射し込まず、湿気に満ちた地下室での一日を送る毎日でした。そんな人々が都市人口の4割をこえていたといわれてます。
彼等は肉を食べるどころか、3度の食事に満足にありつけたどうか疑問が残ります。定収のない寡婦や下層の女達はそれはみじめな状況でした。

 ヨーロッパで酪農が本格化したのは19世紀以降ですし、
冷凍化技術が完成し大量輸送が可能となってアメリカ、オーストラリアから
大量の肉類(飽和脂肪)がヨーロッパに輸入された結果、ようやく所得の増えた一般庶民に肉食が普及したのです。
 
 ブタは4000年前から放牧と、森林での樫の実で飼育されてきました。しかしそれでも大量飼育が普及し供給が市場の要求ををみたすようになったのも19世紀に入ってからです。

現代のアメリカ人の肉の年間消費量が60キログラムなのですから、100キログラムの肉の消費なんて大変なことです。
 19世紀後半からの大量牧畜化に伴い,肉の生産量は回復し、1900年にやっと50キログラムまで回復してきたのです。
産業革命後の工業化によってヨーロッパの人々の所得水準が向上し、国民が平均して肉を食べれるようになったからです。
わずか百数十年前のことです。


ヨーロッパにすむ(コーカジアン)は数千年前から肉食人種と日本人が一方的に思い込んでいるだけなのです。

 厳しい寒冷地のヨーロッパでは小麦の植物栽培は困難で大麦やライ麦であり、ウシや豚、羊、ヤギが代替食材として古来から飼育されてきたのは当然でした。
 やせた土地で放牧されたた牛達はブリユーゲルが描く絵画にみられるように栄養不全で体重の四~5%程度しか脂肪はなく、その
脂肪は不飽和脂肪酸でした。
現代の人工飼料(穀類由来)で育った飽和脂肪に富む牛とは体型が全く違います。松坂牛を見れば一目瞭然です。松坂牛はロケットのような体型。
体重の20~25%が脂肪でその大部分が
飽和脂肪です。
 今から約150年前までヨーロッパ人の食事は飽和脂肪とは無縁であったのです。肉は市民、農民達とは無縁でした。
 中世が終結し、その後18世紀まで小氷河期とまで言われた寒冷なヨーロッパにおいて(コーカジアン)達は王族、貴族等の特権階級を除いて絶えず飢えに苦しめられていました。頻発した大飢饉と多発した農民一揆。ついにはフランス革命へと突き進んだのです。
 
 しかしながら当時もそしてそれ以降も、ごく少数の特権的階級の人々の食卓には動物性肉(牛、豚、各種鳥類、魚等)が豊富に提供されていました。
しかし、その牛や豚肉は飽和脂肪に富んだ肉ではなかった。
ヨーロッパの人々の食のシステムにおいて、穀物がやはり絶対優位の役割を果たしてきたのです。
 
 
ゴッホの有名な「馬鈴薯を食べる農民」の絵がこの事実を物語っています。19世紀の始めフランスのかなりの農民は未だこのような状態だったのです。
 またミレーの「落穂拾い」の絵画も同じです。落穂を拾い集めは農民にとって大切な仕事でした。「晩鐘」にしろ「落穂拾い」にしろ、描かれている農民達の衣類は小奇麗に見えます。
みな絵画用に修飾された野良着であって、実際の農民は貧しく粗末な自家製の麻の衣類を纏っていたのです。

ようやく18世紀後半の産業革命以降、産業技術や農耕器具の発達と世界の植民地政策により一般市民階級にも肉食が普及し、数世代後の20世紀以降、ヨーロッパ人の飢餓遺伝子は冬眠していったと考えられます。

 ヨーロッパでの原始的な農耕の始まりは約6千年前からであり、羊、ヤギを中心とした放牧の始まりは4500年前ごろとされています。同時に牛の家畜化も始まりました。牛は農耕用でした。老齢化し労働不能になった後、食用にされたのです。
 
 日本で稲作農耕が始まったのはやっと約2000前の弥生時代からといわれています。
日本国の隅隅までが水田に変わり稲穂が垂れる瑞穂の国と言われる現在私どもが見慣れた美しい田園光景が普及するのは戦国時代が終わり秀吉が全国を統一した頃です。

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