墜落

2018/06/04

墜落、自家用ジェット機
海底から引き上げられ修復されたボイスレコーダーの記録;
墜落直前の録音内容:

「あれはよかったろう」「ああしてほしいんだろう」

「おいどうした、なかにいれろ。私をなかにいれろ、なにが起こってる?

なかにいれろ」

「あばずれ」「あのあばずれ女め」

「くそ、くそ、くそ、くそ」

「バン、バン、バン、バン」

「だめだ」

『あ』
コックピットで操縦桿を握る副操縦士のつぶやきとコクピット外からの機長の叫び声に重なるボディーガードが発射した拳銃音の記録だ。

事故調査関係者のなかで真っ先にこの録音を聞いた連邦運輸局事故調査委員二人の会話ー
「ボス?」
「ああ、聞いたよーーー」
「彼だったんですね。彼が女のことをこじらせて、あの客室乗務員とのことで」

2017年のアメリカ探偵作家クラブ最優秀長編賞受賞作「晩夏の墜落」。その墜落機のコックピットのボイスレコーダーの記録である。
いわばこの小説の のエッセンス部分だ。
このわずか100文字に到達するために25万個以上の文字が費やされ、読者を飽かせることなく一気に引きずり込む。
640ページ余の長編サスペンス小説。
最優秀賞作品ならではだ。お金払って読む価値あり。

 アメリカの大富豪が所有する豪華自家用ジェット機がニューヨークから遠く離なれた高級避暑地近くの海に墜落する。
9名の命が失われ2名が助かる。
現場捜査の責任者である連邦事故調査委員会主任の錯綜しつつも冷静かつ客観的判断力。その思考過程の全てと、途中から捜査の主導権を握ったFBI主任捜査官の権力をうしろだてにした強引な捜査。
ーー自己中心思考と振舞い。
そして全米のテレビ視聴者に絶大な影響力を持つ大物コメンテイター兼司会者の人の意見に全く聞く耳もたぬ傍若無人振り。
現代アメリカ社会の切実な問題点を浮き彫りに一つ一つの断面が切り出されて興味尽きない。

 ジェット機を墜落させた直接の犯人の副操縦士と、一時期は彼の恋人であった女性客室乗務員との複雑に絡みあいそして決して一致することのなかった両者の深層心理が悲劇の引き金になった。

機長であるベテラン操縦士と富豪一族のガイドの詳細な描写にも必然性がある。

ストリーは非ミステリアスな話題も幾重にも重なっていく。
奇跡的に生き残った4歳の男の子と荒れ狂う海の中でその子の命を助けた無名画家。主人公である画家は偶然にもその遭難気に乗り合わせてしまう。
そして、絶体絶命の死の海から命がけの脱出に成功し、一気に英雄に祭り上げられる。
美男(主役の男は必ずイケメンと相場がきまってるが)の彼を奪い合う3人の優雅な美女達との愛とセックスが展開される。
あまり嫌味を感じさせずにモテない世の一般男性読者へもそれなりのサービスも。

他人を思いのままに操つる絶対的権力へのあくなき欲望。
無限に膨らむマネーへの渇望。
コントロール不能にまで持続するセックス本能。
求めるものに男と女の差はない。

 いつの時代でも、現代社会も我々をかずかずの欲望が取り巻いている。
理不尽な嵐のような数々のストレスに打ち勝って1ケの大きな幸運を手に入れた人。
複数のそこそこの欲望をかなえた人。
空振りの果て両手を広げて呆然とする人。
人間とは成功と失敗の流れに翻弄されさまよう生物。
 カミユの名作「ペスト」が20世紀を代表するスーパーショットなら、このミステリーは難しいバンカーショットからの脱出である。100に1回のチャンスを成功させ、しっかり女神を捕まえた。

 このミステリー大賞受賞の傑作が細かな規則とクソ定規に縛られたなかで日々の生活を送っている日本人の目にどのように映ったのか。
せせこましい日本人の脳細胞から見るとこの小説はいわゆるミステリー小説の分類、概念からは外ているのだろう。
だから日本ではベストセラーにならなかった。
 平凡な男女の恋のもつれが生み出す深層心理の複雑な絡みが、しかもたった一本の糸のもつれが大事故の原因となった。
その後のストリーの展開が謎解きとは無関係ではミステリーの外枠と切って捨てられてしまった。
 こういう評価の相違は根源的に欧米人と日本人との差だ。
日本人特有のガラパゴス的発想が日本国内の狭小なミステリーの定義、定規の合致しなかった。
 今回、日経新聞小説大賞を審査した3人の作家たちが、もしこの小説を読んだなら(読まないだろうなあ)どのような評価を下すかなと想像するのも一興。
あのような小説に500万も贈与するなんて。
50年間、日経新聞紙代を払ってきた読者としては少々懐の痛みをかんじる。