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一人旅 ローマへ

2014/11/21

一人旅のためのローマ案内
 人間の子供に乳をやるオオカミ像はローマのシンボル。
  
ローマへぶらりと一人で行ってみようと思案している人への実践案内板です。
旅行社での航空券の手配、イタリア国鉄ホームページの時刻表を見てES搭乗券を手配。英語が片言できれば簡単ですよ。
booking.comからホテルを選択し予約する。自分好みのホテルを選択して。

そして一人で現地空港に降り立ち、目的のホテルまで行く。
空港からはバスがベスト。
税関の外には日本人客を迎えにきてる現地在住の同胞が多数いるけど。

タクシー利用するにはしっかりとタクシー乗場に行き着けるかな?初めての旅人はタクシー乗り場の目印を見つけて歩いていても強引に客引きに誘われるから注意が必要。
それが問題。
乗り場に到達直前まで袖を引張るから。巧妙なんだよね客引きは。彼らは金さえぼったくれば猿でものせるよ。ダメと判ると、あっさり次へと。

断固とした対応で。

ふと思い立って一人で旅にでますね。

国内あちこちの温泉巡りもローマ観光も同じですよ。
費用の差はスケジュール次第。知恵の絞りどころ。老人は貧乏くさい旅はヤメましょう。多少は贅沢に。時間はたっぷりあるから、余裕あるプランを練る。
最初の1回目をクリアすればあとは簡単至極。

荷物も少なくてすむ夏がいい。お盆前後を外すのがベスト。
機内持込み可に収まるバッグ1ヶで十分。

 
古代ローマ人は戦争ばかり。何千年も前からかぎりなく残虐な戦いを続けてきた。敵とみなせば、即、殺す。それが一生の仕事だった。
現代ローマ人もたっぷりその先祖の血を引いているから、何かと気をつけよう。
生き馬の目を抜く技量にたけている。

来る日も来る日もバトル、バトルに勝ち抜いたのがローマ人の歴史です。


 ローマ見物?半日、精々1泊して駆け足で市内を回ってローマには行ってきたという人、結構回りに多いでしょう?
ローマ市内の古代パンテオン。夜の散歩がいい。


成田からローマのフウミチーノ空港へは12時間半のノンストップの旅。
たっぷり寝る時間があるので不眠症の人は睡眠薬を。そしてローマ着。
税関をでると、プラカードを掲げたイタリア人のおっさんが目にはいる。
自分の名前を確認して車に乗る。
初めての土地を尋ねるときは出迎えが必要かな。
バス利用は2回目から。
現地旅行社に頼んだ有料のガイドに送って貰う手もある。費用が多少高くなる。

運転は乱暴。もっとも当の運転手は平然としたもの。

タクシー代はすべて45ユーロと決まっている。

英語は判らなくても大丈夫。

ひとり旅では昼は現地主催のツアーに参加するのがベスト。
ガイドの英語の説明は判らなくてよろしい。
なにをいってるかは事前の日本での勉強で頭にはいってるからね。
でも片言くらいは判る。それで十−分。
全く予備知識の無い人は現地の日本人ガイドのツアーに参加を。
ガイドは老人の男がいい。なんてたって経験豊富だから。
若い女性が男にとってはいいに決まってるが親切度は男のガイドが上。
 

さてさて問題が発生する。夜の食事をどうすごすか。

毎晩夕食一人ではつまらないですね。
これが一人旅の大問題点。
 夕食は誰か相棒がいないとね。一人ではわびしい。
出発前に現地ガイドをツアー会社に頼んでおく。
食事だけ一緒してくれる美女もいる。ゴチおごってさらに車代払って飯食ってハイ、サイナラ。
それが一人旅の外国ツアーっていうもんですね。


何をするにしても異性に頼み事して金のかからない方法は見つからない。
アベックの食事はあきらめて安い庶民的な店で一人でたべる。さみしいね。
しかたない。日本人の店員相手におしゃべりが安全か。

現地で一人旅の日本人の仲間を探す?これは不可能。

見知らぬ日本人同士が海外で顔を合わしてもお互い口をきかない。
それが一人旅の宿命というもので、越えがたき垣根なんです。
うっかり気楽に声をかけては睨まれる。


南国ローマは暑くてと心配している方、安心です。
真夏はローマ見物にはもってこいの季節です。
暑いけど、天候が安定してはるか高く青空がどこまでも続いてる。
涼風が吹き始める夕暮れは日本の秋のような空気に包まれるゴールデンタイム。
散策と旨いディナーのレストラン探して歩くには絶好のシーズン。
ホテル屋上のレストランから巨大寺院のドームが見えるレストランなら最高。

テェベレ川沿いの屋台で食べるのも一興ですよ。 夏はこんな店や屋台が大量に出店する。

下町の古い建物に囲まれたレストランも趣がある。張り出したテント。その空間のなかに雑然と並ぶテーブル。まわりはほっとした顔そして顔。旅の風情があふれて。


こんなコック達の作る料理は最高。
 真夏のローマは悪くないが、8月のローマ市内の正午の気温は39度と路上のデジタル時計の数字が黄金色にかがやいていた。
しかし空気が乾いているので日陰にはいるとほっとする。
気温がピークを過ぎるのが午後5時すぎ。
直射日光に照らされ燃えた歩道を歩き回る場合は水分補給に気を配ろう。
夕食後はちょいと外出してビットリオベネト通りに足を伸ばす。
有名なカフェド.パリかハリーズバーの屋外テラスがいいですよ。
夕食は結構旨い。
ここなら一人でも可。
ただし誰も誘ってくれないし、女性には無視されるだけだけ。
店内の椅子に座ってコーヒー飲むと3千円。


コーヒー飲んだらビットリオベネト通りを散歩しよう。良いですよ。しかし、恋人は愚か女の影もいない一人の夜の散歩は一段と孤独感を煽られるので、やめた方がいいでしょう。
年寄りはやはり昼間がいい。いろいろな店のウインドウショッピングで時間潰しが出来るし、カフェで独りでいても怪しまれない。

 宿泊したホテルはバルベリニーニ広場に面してる。ここからは5~6本の幹線道路が放射状に走り抜けている。システィーナ通も走っている。そしてその先に、有名なハスラー、インターコンチネンタル、等の超高級ホテルが並んでいる。広場からこの通りをゆっくり歩いて約10分、両側を狭い歩道に挟まれた一車線の狭いシスチーナ通りの坂道を上りきるとスペイン広場に到達する。スペイン広場の景観を見終ったら、足をそのまま延ばしてポポロ広場には是非行こう。


だだっ広い広場だけど、全体の醸し出す雰囲気と彼方のポポロ門が歴史の重みを伝えてくる。
ポポロ広場こそローマ随一の必見の場所。
世界史の出発点の広場ですよ。


美術館の見学:
現地のタクシーの運ちゃんは美術館には興味無いから場所は知らない。目的とする美術館名と
住所と地図を一緒に渡し場所を必ず確認させてから出発すること。


1.ヴァチカン美術館。 

バチカン美術館はローマに足を踏み入れた以上はやはり見物にいこう。

全行程は3時間が普通、最短でも2時間半。
スタートに日本語のガイド(日本人)が何時間かかると言うので、
事前の予約時間と合っているか確認すること。
日本人は束ねて集められる。どのエイジェントに申し込んでも同じ。
ラファエルの間は案内人がオミットしてしまうことが多いので注意。

2.ボルゲーゼ美術館
3.カピトリーニ美術館

4.2カ所のローマ国立博物館(テルミニ駅そばとナボ−ナ広場そばの2カ所)

5.ド―リアパンフィーリ美術館
6.バルベリーニ宮殿内の国立美術館 
以上の超有名美術館はさすがに傑作多し。
前もってよく絵の勉強をしておくこと。
美術館内には絵を解説したパンフレットはなし。カラバッジョの名作あり

館内は撮影禁止だから重いカメラを持ち歩いてもね。 

カラカラ浴場跡地での恒例のオペラ見物;
アイーダか、カルメンが背景の舞台装置にぴったし。
会場のスケールはさすが雄大。
ツアー客は最後尾の最上段のカラカラ浴場全体を見渡せる眺めのよい席。
上着がないと途中からは寒くなりました。

現地のホテルに頼めばもっといい席が幾らでも手に入る。
日本で予約する必要なし。

ただし帰りのタクシーの手配が可能なら。
夕暮れ時の(午後8時過ぎからの)カラカラ浴場周辺の景色はさすが。
巨大な遺跡の壁が闇を貫く光芒に照らされ幻想的である。

午後8時頃から9時過ぎまでがベストタイム。
真っ昼間に見物して歩いてもあまり感激しませんよ。


 

糖尿病とは

2014/11/13


糖尿病と診断されたけど…..
喉がかわく、頻繁にトイレに行く、食欲はあるのに体重が減る等の自覚症状をきっかけに糖尿病と診断される時代はおわりです。
現代は健診、人間ドックなどで見つかるのが一般的で、自覚症状で糖尿病ではと気がついたという人。
しかしそのまま放置している人も多いのです。

私どもの食生活は外食に大きく依存しています。
宅配、デパ地下、スーパー、コンビニ弁当。味付けも進歩しました。
でもそれらには砂糖と脂肪類が過剰に使用されています。
日本人はいつのまにか甘くないと食べなくなりました。砂糖浸けの大アマの食事に変ってしまいました。
この事実に厚労省や専門学会などもはあまり関心を払っていません。
料理の品数も種類も増えたにも拘らずです。
どうしてでしょうね。

第二次世界大戦前、そして戦後20年、日本人は塩分過剰の食事を取っていました。
昭和40年頃から食塩を減らす運動が実施され、日本人の食塩摂取量は確実に低下しました。
その結果、日本の脳出血の発症率は今のように劇的に減少したのです。

このように食環境が大転換している時代に、今の食品交換表は目的を十分に満たしていません。
食材や加工調味料理にどのくらいの砂糖が使用されているか、カロリーは?
どの国から輸入されたのか。
めまぐるしく変化する食品情報を常にすぐに手にいれられるツールの開発が急がれます。

1800カロリー以内で毎日8時間以上働き、往復2時間の通勤。
さらにさまざまな家庭サービス。
こんな生活が1800キロカロリーの食事で可能でしょうか?
この事態にどう今の医学は対応していくか。
機械的な食事指導では糖尿病患者さんの過半数が病院にそっぽを向いてしまうのも無理ないですね。
未治療の患者さんが多い最大の理由です。

医師が発表する研究論文数と比例して世界の糖尿病患者数は増え続けています。
膨大な時間とお金を使い、地球を飛び回って研究発表した結果がです。
これは皮肉ですね。
新興国の経済が発展し続けるほど糖尿病患者が増加し、
先進国では糖尿病の合併症も増加する現在と未来。

糖尿病治療の基本はカロリー制限と運動です。しかし実行しないことにはどうしようもありません。
朝のラジオ体操のように皆が集まって簡単にできるもっと血糖を下げる有効な国民的運動を考え出す事が必要です。


※注意>現在、糖尿病で治療をうけてる患者さんは主治医の意見に従う。のこのサイトの内容は参考資料にしてください。

飢餓遺伝子と人類の歴史

2014/11/13

飢餓遺伝子と人類ー2


1. 狩猟時代ー氷河時代は主として大型野生動物の捕獲であったが比較的豊かな食活を享受できたといわれる。
2. 採集時代-ーー狩猟プラス植物類、果実類、貝類等の採集が混在した時代
3.  農耕と牧畜時代----1万年前から現代へ
4. ヨーロッパに住むコーカジアンも厳しい気候変動と 繰返す飢餓により困難な食生活をしいられた
5. 日本では弥生人により約2000年前から稲作が開始されたが、中世、近世、明治まで断続して頻回の飢餓に見舞われた


<1万年前の生活と 農耕の始まり>
 氷河時代の寒冷期はマンモスや大鹿、野牛等大型獣の狩猟が主であり、温暖期に変ると植物の実の採集と草原の小型動物の狩猟が主であった。
この時代、人類の生活を大きく左右したのは不規則な寒冷と温暖の数十から数百年単位の変動。
繰返す雨期と干ばつと洪水など自然環境は人類に対して危機的猛威をふるった。
1万年前のヨーロッパ大陸は南部は地中海気候帯、西部は海洋性気候帯、東部と北部は大陸性気候帯に属しこの移行帯は 大きく変動し続け、寒冷期は北アフリカ海岸線に、温暖期にはバルト海にまで北上した。
この移行帯は5~600年の単位で変動したと言われている。

 農耕前は、動物源としては哺乳動物、鳥類、爬虫類、昆虫そして海産物、食べられる動物の死体などであり植物性食材としては豊富な野生の植物類(蜂蜜も含む)であった。
やがて人類は次第に単なる採集から利用価値の高い食物栽培の技術を獲得し、能率よく食材を手に入れる事が可能となった。
約1万2千年前、農耕が中近東西部で始まり、6000年前にはヨーロッパへと波及した。
一般にヨーロッパは寒冷であり、ことに北部地方は農耕には不適の土地で、
耕作にかわって牧畜が代用た。

流通は未発達、有効な交通手段を持たなかった当時、飢えと栄養不良は当然の結果であった。
そのような時代に農耕の開発はそれまでの狩猟採集民族としての人類にとってまさに革命的転換点なった。

 農耕は大量の穀物生産を可能とし、人口増、過剰な穀物の蓄積を産み、集落や都市が形成され、緩やかな流通経済も成立させるにいたった。
しかし、同時に集落形成は環境面では、細菌やウイルスの巨大な培養基となるマイナスをもたらした。
その結果は 天然資源に欠けた土地が産み出す栄養価の低い植物の生産と、人間の身長の短縮であった。
紀元3500年前頃にメソポタミア地方に都市が出現し、現代の歴史の幕あけとなった。
鉄器時代にはいいると、食料と人口増を維持していくため、土地は多数の領土に分割され、その土地をまもるため、居住をかねた要塞も多数構築されてきた。
こうして民族の群雄割拠の状態が出現し、人類の絶え間ない近隣部族同士の戦いの時代へと突き進んだ。


<饑餓遺伝子を考える>
 最近はこの言葉はあまり使われなくなりましたが、なかなか本質をついた日本語だとおもいます。
 氷河期、旧石器時代に寒冷地帯にすむ人類は食物資源確保のため狩猟ー採集の為に1年間の大部分をついやした。しかも食材としてのマンモスやトナカイ等は年間を通じて規則的に獲得することは不可能であり、彼等の食生活のサイクルは飽食と飢餓のサイクルも多かったと推測されるのです。
すなわち年間を通じて大型動物を捕獲した数ヶ月間の飽食と食べ尽した後の飢餓の日々(雪中に保存し長期に利用もした)の繰り返しであった。
 しかしこれは狩猟ー採集民族の生活の一断面にすぎず、狩猟?採集民達は当然ながらあまりに気候が寒冷化すると生存可能な緯度まで撤退し、安定した生活環境地帯に逃れたのである。
いずれにしろ過酷な環境に打ち勝って生き延びるために人類は如何にして生存のエネルギーを確保しえたのでしょうか。
 有名なアメリカの集団遺伝学者故Neel博士は人類生存の防御機能として饑餓遺伝子 の概念を1962年に提唱しました。
すなわち「 氷河期、飢餓と満腹サイクルを繰返し生きた古代人が、自己のエネ ルギー利用と貯蔵の効率を高めるに獲得した遺伝子が
節約遺伝子(饑餓遺伝子)である」と。
この遺伝子を獲得できないと厳しい自然を生きられずと言う訳です。

 伝統的な生活習慣から急速に西洋風のライフスタイルを強制された北アメリカに住むピマインディアン、南太平洋島々の住民、オースト ラリアのアポリジニなどで肥満、糖尿病などが激増した事実を解明するうえで饑餓遺伝子説は妥当として
現在にいたるまで支持されています。

 
 Neel博士は1962年に上記の論文を発表しましたが、1999年には「”it is now clear that the original thrifty genotype hypothesis, with its emphasis on feast or famine, presented an overly simplistic view」

と前論文を若干訂正しています。
 博士は同じ地域で同じ食生活を送る白人系アメリカ人よりピマインディアンに糖尿病罹患率が高頻度に発生した理由を1万年前の特別な遺伝子の発現にもとめたのです。

<ネイティブアメリカンと饑餓遺伝子>
 1万8千年前、海で埋没する以前、シベリアからモンゴロイドがベーリング海溝沿いに数十人ずつの単位でアメリカ大陸へ渡来してきた。
彼等パレオインディアン達の子孫の一部がピマインディアンです。
約1万年前とほぼ変わらぬ生活様式を維持して来た。
 1830年、アメリカ議会はアメリカ本来の住民である東部在住のアメリカインディアンの強制移住法を成立させ、
1870年以降には西部のインディアン達も全米各地に移住させました。
さらに1887年後は、彼等のライフスタイルそのものをを強権的に西洋化させたのです。
うしてインディアン部族は固有の伝統的な生活と文化をうばわれたのです。
やがて強制移住させられた限られた地域に住む彼等の間に肥満と糖尿病患者が世界一の高頻度に発症し(50%と)、アメリカはじめ世界中の糖尿病専門家の注目をあつめることになりました。
当時、北米にはインディアンは500以上の部族が居住していたといいます。
 一方、アラスカに居住する北極圏のイヌイット族やメキシコに住むアメリカインディアンにはこのような事実は認められていません。伝統的な生活習慣をもち続けた結果、糖尿病発症率はわずか3%に過ぎないのです。
しかし、彼らに対してもここ最近の10年来の自然と生活環境の変化の与える影響は大きい。
わずか数十年のヨーロッパ風の生活スタイルを送っただけで次の世代に糖尿病が多発したのですから。
 歴史的に飢餓に悩まされて来たのは当然ながらアメリカに住んでいたこれらパレオインディアンに限らず高緯度の寒冷地で生活してきた地球上の人類に共通の事実です。
ことにヨーロッパ北部はシベリア並に寒かったのです。
1万年前から19世紀初頭まで絶えず飢餓に苦しんで来たヨーロッパ在住のコ−カジアンを、なぜか現在にいたるまでヨーロッパの人類学者達は饑餓遺伝子の研究対象として取り上げてきませんでした。
科学的に見ても不思議なことですね?

 コーカージアンは生まれつき先進的かつ文明化された民族であったので飢餓遺伝子とは無縁であるとの人種差別的な優越感がヨーロッパの考古学界を支配しているからです
ヨーロッパではそれで饑餓遺伝子の研究の矛先を自分達の祖先には求めず、未文明の世界に求めているのです
 農耕開始の初期から近世まで、ヨーロッパの人口の90%を占めて来た農民が常に飢餓の脅威にさらされていたのは歴史的事実であり、彼等は狩猟採集民より飢餓の危険に曝されながら生延てきたとの学術論文も多いのですが。

<人類の活動> 人類は古代型サピエンスの時代になると大脳が急速に発達しました。 
人類が肉の味を自覚したのは250万年前ごろと推測されています。この動物性の食材利用が脳のサイズを拡大し機能も成長させたのです。
同時に肉体を確実に成長させた。
この大脳の肥大化が人類として長く生き残る要因となった訳です。蜂蜜や果物や穀物などの採集により脳細胞が必要とするブドウ糖が常に供給された結果、より優良な遺伝子を現代へと残し得たのです。

 3万年前以降の人類の各種生理機能は骨格構造とならんで、
現代人にひきつがれています。

人類を取巻く自然環境の巨大な圧力が人類の生存に大きな影響をあたえ、
如何にして人類の遺伝子の変化、

変異をもたらしたかは正確には不明です。

 紀元300年から600年にかけては天候不順と厳冬で人類は生存の危機にさらされましたが、その危機を脱した西暦900年前後、移行帯が北に移動し安定した温暖気候に変わったことからヨーロッパは生き返ったのです。以降の1300年末までの400年間、ヨーロッパは温暖化の時期を迎えたのです。そしてようやく農業と牧畜で食料の自給自足が可能となっっていったのです。
この期間は中世ヨーロッパの豊かな時代として400年間続いたのです。

この豊かな社会秩序のなかでヨーロッパ各地に壮大なゴシック建築群が出現したという訳です。

 

 

21世紀はどうなる:

 2003年に世界糖尿病機関が発表したデータによると、1995年に全世界の糖尿病発症は4%であったのが2010年には5.4%にまた2025年には7.6%に増加する。
発展途上国では3.8%から4.9%の増加ト報告しています。
そして患者総数は2025年には全世界で3億人。
先進国では5100万人から7200万人の42%増加。
一方、発展途上国では8千4百万人から2億2千2百万人と絶対数はふえますが、
総人口が遥かに多いので(アフリカ等)比率は先進国に比して小さいのです。
 1990年ごろ、フランス、ドイツ、イギリス、オランダの糖尿病罹患率はそれぞれ2%前半でした。そしてIDF の2003年の発表では、それぞれの国で6.2, 10.2, 3.9, 3.7%へと増加した。
さらに2025年には7.3, 11.9、4.7、5.1%に増加すると予測されています。
2000年以降、スペイン、ポルトガル、イタリア、スイス、北欧諸国、
ロシアでは全人口の8~10%以上です。

世界的な糖尿病増加の巨大潮流のなかに今やヨーロッパも完全に飲みこまれました。
21世紀、世界で最も高い増加率を示すのは中国の68.5%、インドの59%増で、今後、経済発展の高い地域においての増加が突出することになります。
年令による糖尿病罹患率を検討してみると、先進国では高齢者人口増に比例して60歳以上の糖尿病の増加が特徴的なのにたいして、発展途上国は働き盛りの中高年者40から50歳までの罹患率が最も高いのです。この相違の原因は現在なお不明です。
 1995年以前、ヨーロッパ諸国のイギリス、ドイツ、オーストリア、イタリアにおいては糖尿病の発症率たかだか2%台であり、北アメリカやオーストラリアの8%と大きな差が認められていました。1万年前から彼らの先祖はヨーロッパ各地にに住み飢餓遺伝子を共有していたのに何故このような差が生じたのか?
ジャレ.ダイアモンド先生当時ヨーロッパ大陸の市民階級の中で経済的に困窮していた下層の人だけが新世界アメリカ大陸に渡り現在のアメリカ人の先祖となった。オーストラリアへ移住したヨーロッパ人も同様であった。
 これら下層階級の農民達は常に飢餓にさらされ、低水準の生活であった。「渡米した 彼等は移住後も厳しい環境下での開拓、農耕作業を強いられ、
長い年月、飢餓的状況が続いた結果、彼らの飢餓遺伝子は消滅することなく
現在に至るまで活発に活動し続け、一方、ヨーロッパに残った人々は流通の発達により飢餓状態から脱し
食料不足で悩まされることは少なかった。すなわちヨーロッパ大陸に居残った人々は豊かな生活水準を保ちえたので飢餓遺伝子は存在しなかった

これは歴史を無視した珍説と言えませんか。
 現代なおヨーロッパの歴史、考古学界等の有力専門家や大家と言われる人達の中に歴史的事実に目をつぶり他人種を一段と低くみおろし、コーカジアン優位の論文を書く学者も少なからずいるという事実をしめす典型的な文章ではないでしょうか。
 現在、ヨーロッパ各国のコ−カジアン、ヨーロッパに居残った白人種において糖尿病が激増している事実をダイアモンド先生は今後どのように説明するのでしょうか。大いに興味ありますね。

 平均的なアメリカ人の食事は高脂肪(飽和脂肪),高タンパク、高砂糖食からなる高エネルギー食です。このような均一の高カロリー食が広まれば世界のどの地域においても遺伝子は同一パターンの変化をうけます。
いわゆるエピジェネティックな影響下になります。
 ヨーロッパでは昔から多種類の伝統的なローカル料理が各国で育まれて来ました。
その食文化は野菜類、ジャガイモはじめとする穀物中心の雑食であり、豚、鶏、羊等の多用により、脂肪間でのバランスもとれ、飽和脂肪の牛肉いっぺん党ではない伝統が多く見られた。しかし第2次世界戦後60年、ヨーロッパ各国においてもアメリカ文化の影響を強くうけてます。世界各地から農産物が輸入され、伝統的色彩を残していたコ−カジアン独自の食文化もアメリカ式食習慣に浸食され、発展途上国と変わらぬ状況へと変貌しつつあります。
その結果、ヨーロッパ各国においても都市部を中心に糖尿病罹患率が急上昇しています。

日本と全く同じ道をあゆんでいます

饑餓遺伝子と言う言葉は人類の歴史において依然として重要な意味を持つ言葉といえます。激しい饑餓が続区アフリカの人々の飢餓遺伝子はどう変化していくのでしょうか。
 地球最後の氷河時代を乗り越え、やっと農耕と牧畜で年間を通じて食料を確保できるようになった人類に刻み込まれたDNAが、約1万年かかって現代人の遺伝子の基礎を作り上げてきた。
 長い歴史において,過酷と快適と言う2面性をもつ気象条件が反復されると
摂取するカロリーは大きく変動し、遺伝子は環境に適合して変化し,幾世代に受け継がれていきます。人類は厳しい氷河期を生き延びる為に飢餓遺伝子を必要とし、
この遺伝子は環境の変 化により多型を産み,平等に地球上すべての人類に刻みこまれたのです。 
飢餓遺伝子の有無に人種差を示すエビデンスは見つかっていません
「コカコーラ化」(高脂肪と高タンパク質と大量の砂糖摂取食文化)によって、それまで発 展途上国にのみ限定的に活性化されてきた饑餓遺伝子が先進国においても、一斉に冬眠から復活覚醒し、ヨーロッパの先進国を先頭としてグローバルな糖尿病激増の主役として脚光をあびるにいたったという訳です。


 

ダイエット療法

2014/11/13
      ダイエット療法

201411131623_1.jpgイタリアの田舎風スープ 201411131623_2.jpgおせち
 
 狩猟の獲物と野原や森あるいは海、湖沼で採集したものを主食としていた古代人の食生活と現代人のそれと比較する研究が活発です。
 自然界の動植物だけを食べていた人々の食生活は、人工食品に取り囲まれ、生活習慣病に悩む現代人の興味をを強く引きつけるからです。
 世界中の医学、栄養学者が過去から論争を繰り広げ、今も続いているのが高脂肪食か、それとも高炭水化物を主とする食事が糖尿病予防により有効かと言う論争です。
この論争は決着がつかずに現在も続いています。
参考までに現在ひろく提唱され、双方で活発な論争を繰り広げている代表的なダイエット以下の通りです。
 
  古代人   アトキンズ オルニシュ  地中海食
蛋白質 19~35 18~23 15以下 16~23
炭水化物 22~40 4~26 80 50
総脂肪 28~47 51~78 10以下 30
飽和脂肪
一価不飽和脂肪
多価不飽和脂肪
Omega-3脂肪
(数字は%)
   オルニシユ食:オルニシユ博士が提唱する伝統的な高炭水化物中心の食事。
   アトキンズ食:アメリカのアトキンズ博士提唱の高脂肪中心の食事。
   地中海食  :地中海沿岸諸国のオリーブ油、赤ワインと魚介類中心の食事。

 これをみると糖質と脂肪の摂取量が両極端に分かれていてどちらが正しいのかまるっきり判断できません。
貴方は高脂肪食を選びますか?
いや、それとも高炭水化物食でいきますか?
もう好みの問題?

 第2次世界大戦前、1940年頃、ましてや戦争最中は日本人の食事は極端な低脂肪,高糖質食でした。代表が日の丸弁当です。
白いご飯の真ん中に梅干しが1ヶ。憐れでしょう?
でもこれすら満足に食べられなかったんです。戦争末期は。

 そして戦後,世界を驚嘆させた高度経済成長とともに日本人の脂肪摂取量が増大しました。貿易の拡大で世界中のタベモノが豊富に庶民の食卓にでまわりました。日本人はせっせと肉類をはじめとする高タンパク,高脂肪食への道をあゆみはじまました。
 しかしそれでも1日30グラム以下でした。
ここ20数年は、日本人の脂肪摂取量は20グラムそこそこで推移しています。

 毎日50グラム以上も食べる欧米人から見たら羨ましい低脂肪食です。

それにも拘らず日本人の糖尿病罹患率が上昇している理由は何でしょうか?
 老化による膵臓機能が疲弊してしまいインスリンが食事の量に応じて必要なだけ分泌されないからでしょうか。
糖尿病発症に
20グラム程度の脂肪摂取量と低カロリー摂取とは無関係のはずですが,
何とか関係ずけようとする論争もさかんです。
 かなりの程度に食事が欧米風に変わったと言っても。脂肪摂取の絶対量がひきすぎ、
摂取カロリーも平均すると欧米人より遙かにひくいんですから。それなのになぜ、
日本人に糖尿病が激増してるか正確な理由はまだ解明されていません。
単純に摂取カロリーそのものが脂肪摂取量より関係が深い?


 長い歴史を持ち、糖尿病で苦しんできた人々の救世主であったインスリン療法も時代とともに大きくかわりました。
24時間以上作用が持続するものが登場しました。
mあtあ DPP-4阻害薬が内服材として主役の座に躍りでました。

そして数年前からインクレチン製剤が登場して新たな段階にはいりました。
 新薬インクレチンの注射は肥満をおこしません。
 またインクレチンには当初の高血糖を低下させる作用だけでなく,
生理学的に重要な機能を持っていると言われています。

現在はさらにSGLT2 阻害剤と言う新薬が脚光をあびてます。

これら新薬のさらなる効能の解明が期待されるところです。


 人間はじっと寝ているだけでも1200キロカロリーは生命保持のため必要と考えられてきました。
しかし、「寝たきり老人」は胃瘻を作って一日800キロカロリーで何年も生きています。
人間は1200キロカロリーも最低限のカロリーは必要ないようです。

で2000キロカロリーも食べ続けると、すぐに体重が増えるのです

美食とは---定義の混乱

2014/11/13
 
 

美食とはーーーー定義の混乱

1, 美食の歴史(創元社「知の再発見」双書56)絵で読む世界文化史)
2. 和辻哲郎「イタリア古寺巡礼」

池上俊一先生の「美食の歴史」の序文から(適宜抜粋)
人間の生命倫理においてもっとも根源的に救いがたい食という行為....他の生命体に死をもたらすことによってのみ生命を維持する....を、もっとも麗しく希求すべき行為に昇華させる複雑な文化的装置であり、芸術ではないのに、芸術すれすれの高みにまで飛翔した技術であって、社会全体の熱意によって支え続けなければ瓦解してしまうの」
判ったようで判らないとはこのような文章の事を言うんでしょう。
 
3万年前に登場したホモサピエンスは当然ながら狩猟採集民で、氷河時代とその後の気候変動期を通じて野性の大型動物を殺して生き延びてきた。そのDNAを受けつぐ現代人類、とりわけ大量殺傷兵器を同類の仲間に使用するコーカジアン人種が食料としての動物を殺すのに躊躇し感傷に陥ったでしょうか?

腕のいい料理人がいたり、豪華料理をしょちゅう食べられる金持ちが多く産まれたり、美食家が脂ぎッた顔で食の蘊蓄を競いあっていても、そこには決して『美食文化』がある事にならない
美食文化の定義ですね。

 「--フランス人の日常食が特に美味しいわけでも凝っている訳でもないのは、だれでも知っている。フランス人の食についての知識が豊富であったり、彼等が鋭い味覚を持っている、というのはまったくの嘘だというのがーーーー極端にいえば、世界中が『フランス美食神話』によって誑かされている」
ふうむ、フランス人は世界を誑かしてきた
『フランス料理というものはルイ王朝以来、国王と宮廷が豪華料理を追求し洗練され、臣下もそれをみならい、都(パリ)の料理として完成されたもの』
あれ、そういうのは美食文化ではないと定義されましたが。

 「フランス料理の美食化に決定的な役目を果たしたのはあらゆるジャンルでの文化と多くの学者、画家、小説家などが、ことに19世紀以降は彼等の作品を通じて世界に喧伝された総合芸術としての美食が誕生」し、『世界中にひろまったフランス料理、イコール美食の代名詞はあらゆるジャンルのフランス文化の結果である」このように「美食文化」を築くとは、社会全体が一丸となって行う大事業である』
え?そうですか?
何世紀も市民が食べ続けてきたフランス料理は美食とは無関係でしたから、社会全体の大事業ではなくて国家的詐欺行為だったのでは?まさか。

『この総合芸術としての美食文化は17世紀のルイ14世、太陽王時代であり、かの有名なベルサイユ宮殿での連日の宴会で完成した。その後今日まで、いくら社会体制が変わろうと国家意志として継続されてきたーーー』
繰り返しますが、そう言う豪華な宴会は美食文化ではない筈。

<まとめ>
 中世からこのかたフランス料理は美食ではなかったんですよね。
15世紀始めから19世紀始めまで、ヨーロッパは小氷期と呼ばる寒い悪天候が続いた時代であり、ことに17世紀は、気温の低い天候不順な時代である。
そのような太陽に十分恵まれなかった土地で飼育された動物や野菜類、果物が美味であったとは考え難い。
多種類でボリュームだけはたっぷりの食材の羅列ではあったが、食材の質と味付けは美味とは言えなかった。
雉や白鳥までもテーブルに並べた時代もあったんですから。
 やっと天候も落ち着き、世の中が豊かになってきた19世紀以降、金回りがよくなった文豪たちがフランス料理こそ総合芸術としての美食であると世間に喧伝しまくったその結果、料理の知識も乏しく、味覚も鈍いフランス国民もフランス料理を美食だと思いこみ、世界を誑かしてきた。
これがフランス料理が美食として世界に流布し,世界遺産とされた歴史的事実。

ゴッホ「馬鈴薯を食べる農夫達」ミレー「落穂拾い』の絵画にみるように、19世紀前半まで国民の80%を占めた農民の大多数は当然ながら美食とは無縁な食事をしていたので、とても芸術すれすれまでの高みの技術とは縁がなかたし、国家意思にかかわらずフランス国民は美食とは縁が薄かったのです。

 フランス革命以後、宮廷で職を失なった料理人が生き残りをかけて必死に高級料理を作りレストランをパリ市内に開業し、その料理を富豪達と豊かになった市民ブルジョア階級が楽しみその歴史が美食文化を作り上げてきた。
時代は変われど富裕層や上流階級の人々によってのみ美食文化は守られ、大多数の国民はフランス料理は旨いとは思っていない。


 20世紀後半以降はテレビがフランス料理イコール美食のイメージ作りの最大の功労者。
コンピュウーターが料理の鉄人にかわって美食文化の主役に躍り出た。
外食産業の大企業がフランス料理をベルトコンベア式に大量生産し、宅配で各家庭に届ける。国家意思によらず一人ひとりの国民の意志で料理が選択され、ほんとうの美食文化が広く世界に定着してくるのです。


糖尿病で悩む患者さん達は様々な苦悩を抱えて生活しています。病気もなおしたい、けれどまず好きなものを満腹するまでたべたい。毎日がジレンマとストレスとの戦いです。
腹が減っては戦はできぬ』
頑張る、どうやって。
人間にとって食べることはセックスの原動力であり人生の最大の楽しみ です。
糖尿病の患者さんも豊かな食生活を自由にエンジョイ出来る日が早く来る事を期待したいですね。



<ビーナス像>と美食
和辻哲郎先生の美女観察と美食の関係:

和辻哲郎先生が昭和2年、1928年にヨーロッパ留学中、ナポリの国立民族博物館でシヌエッサのアフロディテイー像(ビーナス像)を見て感激し、敷衍してギリシャ彫刻の芸術論を書かれています。
現在はパエスツムに新装開館している古代博物館で見られる?下のビーナス像。

イタリア古寺巡礼」は現在まで20数版以上も再販されているベストセラーですのでお読みになった方も多いと思います。ヨーロッパ旅行記で80年後の現在に至るまで,この旅行記を超える深みのあるものは少ない。
 先生はこのとき立ち寄られたジェノバ市内を散策して古いジェノバの中心街に並び立つ歴史的建造物を見て
ヨーロッパを代表するもっともヨーロッパらしい町並みであると高く評価しているのは慧眼ですね。
世界遺産に指定される50年以上も前のことですから。


シヌエッサのビーナス像

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ナポリ国立民族博物館で以前見た像とは少し印象が違うように思えるけど、はっきりとはしない。色も真っ白だし。

ナポリに行ったら是非このシヌエッサのビーナス像鑑賞してきて欲しい。
 世界最高といわれているルーブル美術館のミロのビーナス像やその他各地の美術館に収まっている数々の美しいビーナス像のなかで、とりわけ先生はこのシヌエッサのビーナス像こそが最高であり,神品であるとまでおっしゃってます。
 
先生は
古代の地母神を彷彿とさせる肉体の逞しさに魂をうばわれてしまわれたようです。
作品の持つ芸術性はもちろんですが、彫刻自体の肉体美そのものに強く心を奪われた。
現代、私たちは女性の美しい裸体を日常生活のなかで見慣れています。
オリンピクでの素晴らしい女性美の極致といえる肉体の躍動美はその代表といえます。

和辻先生が活躍された大正から昭和初期の日本では雄渾と形容される裸体の女性を容易には目にできなかった。
当時の若い日本女性の平均身長は140センチそこそこ、平板な胸と細い腰回り、ほっそりと優美な体型が主であった。
着物に包まれた外見の美しい優しさにあふれた女性達。
先生はこのナポリの美術館で日本人女性の肉体とは対照的な豊かな立体的な肉体美に初めて接したのである。
雄渾で逞しい女性のヌード像は明治生まれの和辻先生にとってエイリアンとの遭遇ほどのショック?
その驚きが賛美と共鳴してこのシヌエッサのビーナス像をミロのビーナス以上に評価されたのでは?

しかしヨーロッパではこの像はローマ時代の模作とされ評価は低いようです。
ヨーロッパ人にとってこのシヌエッサのビーナス像の造形はごく見慣れたものであり、
優美さに欠けた雄渾な姿にヨーロッパの男性は魅力を感じないからです。
ヨーロッパの男にとって理想の美女とはミロのビーナス像のごとき優美な女性像ですから。
現代の標準的な女性モデルは背が高く、腹部は平坦でスリム、均整のとれた小さめの臀部の持ち主である。

シヌエッサのビーナス像は現代のモデルとしても失格である。

豊満な肉体の持ち主の菩薩像を始め古代仏像文化に精通していた先生をこれほど感激させた真相は単なる
肉体的造形美ではないかもしれない。ご本人以外には窺い知れないが。


洋の東西をとわず、人類の文化が勃興し隆盛を誇るようになった時が美食文化の始まり。
どのような豊かな食生活を送ってギリシャ人はこのように見事な肉体を作り上げたのか。
彼らの肉体が貧弱で短小な足の持ち主だった訳ではあるまい。
壷絵に書かれた美女達は当時の現実の女性のスタイルを写していると考えてよいのだろう。

当時の遺伝子を構成するDNAが引続いて現代まで途切れることなく作用している。

富な魚介類、たわわに実った果実類そして野生の動物の肉にめぐまれ、
長い美食社会が古代地中海文明の基礎を築いて見事な人間の造形美を作り上げてきたと断言していいであろう。

美食こそ芸術である?

彼らとその子孫たちは生きるため,旨いものを食うために野生の大型哺乳類動物を殺すのに特別な感傷なぞ持ち合わせていない。
食うために存在する獲物は目の前に豊富にあった。
美食のなかに、強靭な肉体が完成し、その肉体を映す美術も産まれた

 

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