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人類と食(饑餓遺伝子-1)

2016/07/15
 
 アジア人は一般的に、欧米人のような高度肥満でなくても糖尿病が発症する人が多い。また、インスリンの分泌量が欧米人の半分と言われている。
アジア人が糖尿病になりやすい体質を、完全に遺伝子レベルで解明される日も間近いと言われていていくつかの遺伝子も解明されている。
 200年前の19世紀に入ってやっと人類は、厳しい大自然の猛威に打ち勝ち、また動物並みの慢性的な飢餓的環境と致命的な伝染病の嵐を潜り抜けて安定的な生存が可能になった。
 暑さと寒さの相違があっても、過去数千年の地球上に住む全人類が直面した自然環境の厳しには大きな差はなかったのです。
 アフリカ大陸の楽園のような温帯のサバンナで比較的穏やかに生き延びた人類は少数派でした。

 紀元前6000年頃、新石器時代以降、人間は一段と進歩し、(ドングリ)や栗の実を集めあるいは栽培してエネルギー源を確保、保存する事に成功しました。さまざまな天候の変動の影響を切り抜けてやがて農耕を着実に発展させ安定的な穀物の収穫と、羊、牛などの飼育が可能な時代に到達しました。
げんざいのヨーロッパの原型が出来上がった9世紀初頭から12世紀末までの400年間がヨーロッパの歴史上最良に恵まれた世紀と言われてます。現在の気候に似た比較的温暖な地球環境に恵まれてこの時代、穀物生産量が飛躍的に伸び始めましたが、一粒から6粒生産という、従来の2倍量に達したのがやっと10世紀に入ってからでした。
しかしその後は小氷期と言われる寒冷な異常気象の時代が1800年前半まで500年にわたって続きます。

<ヨーロッパと北米アメリカ>在住の食生活に差異はあったか?
 中世初期から近代以前ののヨーロッパの農民達とアメリカ大陸に住むネイティブインディアンの食物は炭水化物中心で共通しています。
ヨーロッパでの主食であるコムギ、ライ麦、大麦などの生産量は年ごとに大きな変動をうけてきました。
 アメリカ大陸とヨーローーパ大陸とでは天候、地形という居住環境に大きな相違があり、獲得できた食物の質と量は違いましたが、長年にわたって飢餓に脅かされ苦難をなめた歴史を共有しているのです。

  中世ヨーロッパの農民の日常の食生活をみると、主食はごった煮のお粥スープであって、年に数回、結婚式や祭りのお祝いの席で豚肉やチーズなどを少量たべられたという1年を送ってきました。
ヨーロッパ大陸も貧しい農民達が国民の80%以上をしめていました。身分は国の社会階層では最低クラスに属していました。
 9世紀のはじめ、フランク王国が成立して現在の西欧諸国の原型が成立した頃に、いわゆる西欧風の農民像の原型が出来あがったと言われています。
領主、騎士そして村落共同体社会が出現し、農民は領主に完全に隷屬し、
多くの賦役に服する制度が定着することになりました。
 そして11、12、13世紀になると、温暖な気候に恵まれる幸運が続いて農耕技術も大進歩し農村も豊かな「中世の盛期」といわれる時代を迎え、農民の生活もかなり向上、人口も急増してヨーロッパ中世封建制が完成します。
ヨーロッパがヨーロッパらしい文化、社会、経済の原型を作り上げた世紀と言われています。
 この世紀は農業では3圃制が普及し、鉄の農機具使用で森が切り開かれ、新らしい土地の開墾と耕作技術の進化がすすんで穀物の生産量は一気に増えました。
またタンパク質に富む惣菜栽培が始まり栄養の質も向上したのです。
 13世紀はヨーロッパの主要国ではそれまで猛威を振るった大規模な飢饉は減少し、現代われわれが食べている同じ種類のぶどうや惣菜類の専門的栽培が広まった時代でもあったのです。
  しかし、このように恵まれた時代であっても生活水準が上昇したのは一部の上層農民だけで、大多数の中下流の農民達の生活にはたいした変化がなかったのです。
ひとたび天候不順や疫病が発生すればたちまち凶作へと一気に悲劇的な結果に追いこまれたのです。
 14世紀の中世後期以降近世までヨーロッパは小氷河期と言われるほどの寒冷気候に変わり、ペストの大流行そして100年戦争とヨーロッパ社会は停滞に陥り、社会は混乱し危機的状況に突き落とされました。

 大多数の貧民化した農民は生存ギリギリの日日を送らざるを得ませんでした(北米のネイティヴ住民達と大差ない食生活)。たとえば西暦1315~17年の全ヨーロッパを襲った大飢饉は悲惨そのものでした。人口減少、都市への人口流入、廃村と農産物の生産低下から小麦が肉よりはるかに高価だった時代です。
 このような状況からヨーロッパの主要な国々が立ち直るのは15世紀の末になってからです。空地となった広大な土地の農耕化が進んで穀物の生産が増大しヨーロッパ諸国の国力は回復に向かいます。
16世紀にはいって西欧では国王が各地の貴族を支配し、農民の束縛はゆるみましたが、一方東欧では貴族達の勢力は強大で各地方を完全に支配し、この状態が19世紀末まで続きます。
 当時、イギリスとオランダは、フランス、ドイツ等に比して農業先進国と言えるほど農業分野では一歩先を歩んでいました。両国とも、17世紀の初頭には初期の資本主義的 経営が出現し始め金融制度が発展し、大航海時代をへてアフリカ、アジアからの膨大な富の略奪が本格化していったからです。すなわち15世紀末から、新大陸発見やアジア各地の植民地化、貿易の世界的拡大が、西ヨーロッパ各国に 都市のさらなる発展と全人口の増大をもたらします。

 1770年から1870年の間に厳しい農民の解放と農業改革も断行されて農村も近代の姿に変貌を遂げていきます。
1800年当時、今からわずか200年前、人口の80%は未だ農民であり、抑圧された身分の中で多くのコ−カジアン系農民が一生を送っていたのです。
このヨーロッパが隆盛時代を迎える時期、ヨーロッパの困窮した農民達に救いの手が差し伸べられます。
それは新大陸アメリカへの移民と産業革命による新興工業地帯の出現です。
もっとも彼等が吸収されていった先の環境も厳しく、貧しい移民と農民はやはり低賃金と非衛生的状況下で烈しい労働に従事させられたのですが。
18世紀末からの産業革命の恩恵を受けて西ヨーローッパ全体の農業もやっと中世以来の貧弱な農業から脱皮し発展し始めました。

我々が現在思い描くヨーロッパの肉中心の料理は19世紀中旬に生まれたのです。
 他方、過酷な自然条件のもとでアメリカ大陸で数千年来生きてきた ネイティブアメリカンズは、貧しく全員がほぼ毎年のように飢餓に脅かされていた点ではコ−カジアンと同じでした。
 アメリカ大陸を発見したコロンブスが接触した地元アラワク族は平穏温厚な部族でしたが、その後コロンブスはじめ多くのヨーロッパ人によって奴隷としてヨーロッパへ移送され、大多数はその地で死亡するという悲惨な運命をたどりました。その後鉄砲と伝染病という圧倒的な力に負け北米インディアン部族の数は激減してしまったのです。コロンブス以前の南北アメリカ大陸には7500万人のネイティヴアメリカンが(狩りと採集そして農耕の民族)独自の生活文化を営んでいたのです。


ここまでの纏め:
1. 氷河時代から飢餓のくり返しにより饑餓遺伝子を獲得したのは地球上の全人 類に共通
2. コーカジアンも飢餓に苦しんだ長い歴史を有するが、饑餓遺伝子研究の対象外であったのはヨーロッパ考古学会の主流に今もなお人種差別的な考えが存在するため。 
3. 21世紀にはいり、コーカジアンに糖尿病患者が急増してきた原因は何か。今後の重要課題でる。

<最終氷河期以降の人類史>
 10数万年前アフリカに生まれた現代人型のホモサピエンス。
6~3万年前の温暖期にネアンデルタール人を含む古代型サピエンスは絶滅した。3~4万年前以降は現代型ホモサピエンスが唯一の種として現在の全地球上に分布。
 3万数千年前の最終氷河期中、1万8千年前が極寒期であり海面は現在より140メートル以上低く、べーリング海峡はアメリカ大陸と陸続きとなった。
地球は氷河期にあっては、高緯度地帯は氷河に分厚く覆われ、ヨーロッパは人間居住には不適な環境となり、一方、アフリカは気温の低下と降水量の増加で砂漠は草原に、小動物類は大いに繁殖した。
地球の厳しい気候変動は生物の増減を左右し、人類の遠距離移動をコントロールした。
 この寒冷期が終る1万3千年前頃から地球は次第に温暖化し、海面は上昇し、
ツンドラやステップの森林地帯への変化、灌木と草原の緑の地球が出現した。
氷河は大きく後退しマンモス類の大型動物は北上し、やがて絶滅した。
紀元前9000~8300年のヤンガードリアス期寒期により、地球上の植物の生態系と人類の生活は多大な被害を受けた。
しかし8300から6200年前までは比較的降雨と気温上昇に恵まれ、5500~3000年前、地球は最良の温暖期に変わり、人類はこの時代に生活レベルを著しく向上させ、余裕ある生活を送った。 
 5万年前から続いた後期旧石器時代が1万年前に完結し、続いて中石器時代に、そして新石器時代は青銅器時代と重なり紀元前1000年頃に鉄器時代に突入し現代社会へ移行する原型が成立した。
 

老化と性本能

2016/07/02
  満95才の瀬戸内寂聴さんの脳細胞は20歳代と変わらぬエネルギーを産生し続けているようです。
しかしこれは寂聴先生にのみ特殊な能力ではなく生理学的には人間はこの年齢でも同じ能力を有してる事の証明ですね。
 個人ごとに先天的な細胞機能には格段の差があります。
 中年期に脳梗塞などで血流量が低下すれば、はかり知れない影響を脳細胞は慢性的に受けます。このような突然のイベントによる器質的な変化でなく年齢を重ねた老化過程の血管の障害程度は環境により大きな変化を受けます。
一方、アルツハイマー型の脳機能障害の存在が多くの人々を悲劇に追いやってる現実はご承知のとうりです。
 寂聴さんが人間として最も優れた脳細胞の持主の一人である事に間違いありませんが、それにしても90代の現役作家として30代の爛熟した大人の恋愛,官能小説を書き上げる脳力には驚かされます。まあ男性ホルモンの影響もあるでしょう。
 広く芸術分野を眺め渡すと100才を越えてもその才能を発揮し続けている方は珍しくありません。一つの事に打ち込む事が脳細胞を常に活発に刺激し続けるからです。
 寂聴さんの脳幹内に存在する性中枢の神経細胞と少量の男性ホルモンと同時に女性ホルモン分泌刺激ホルモンは24時間休まず働いてるのではと推測できます。小説を書く作業はこのような実質的な物質の力を借りなくても大脳皮質の細胞がホルモン枯渇をしっかりと代行していると考えられます。
人間と言う生物は死の直前まで性欲を失わない生物なのです。
 日常さりげなく普通の生活をおくっている超高齢者の脳細胞から、男,女を意識する信号が活発に発せられている事に思いいたしましょう。

 この性本能を生み出す脳細胞は環境因子の積み重ねを受けて変化し、個人ごとに大きな差異が見られます。社会生活を基盤に生きる人間である以上これは避ける事の出来ない現象です。

 寂聴さんのご活躍を見てると性本能の保存と維持が肉体的老化自体をも予防しているのが良く理解できます。

 おおよそ40年前、作家立花 隆氏の著書『アメリカ性革命」と言う本を読みました。読んだ内容はおおかた忘れてしまいましたが以下の内容は未だによく覚えています。

『アメリカの田舎町に住む老夫婦の話である。既に夫婦とも80才を過ぎていた。その老夫婦は毎晩ワイオミングの大草原の草叢に寝転び、満点の夜空、そこに輝く無数の星屑を眺めて毎度交わりをかわすと。そしてそうした行為のあと、何時召されてもいい、今、大変幸せであると天の神に感謝の気持ちを捧げている』
 
なかなかに含蓄に満ちた文章ではありませんか。
人間は幾つになっても異性を求める願いあるいは欲望すら確実に存在してると結論ずけてもいいようです。



 

一人旅 ローマへ

2014/11/21

一人旅のためのローマ案内
 人間の子供に乳をやるオオカミ像はローマのシンボル。
  
ローマへぶらりと一人で行ってみようと思案している人への実践案内板です。
旅行社での航空券の手配、イタリア国鉄ホームページの時刻表を見てES搭乗券を手配。英語が片言できれば簡単ですよ。
booking.comからホテルを選択し予約する。自分好みのホテルを選択して。

そして一人で現地空港に降り立ち、目的のホテルまで行く。
空港からはバスがベスト。
税関の外には日本人客を迎えにきてる現地在住の同胞が多数いるけど。

タクシー利用するにはしっかりとタクシー乗場に行き着けるかな?初めての旅人はタクシー乗り場の目印を見つけて歩いていても強引に客引きに誘われるから注意が必要。
それが問題。
乗り場に到達直前まで袖を引張るから。巧妙なんだよね客引きは。彼らは金さえぼったくれば猿でものせるよ。ダメと判ると、あっさり次へと。

断固とした対応で。

ふと思い立って一人で旅にでますね。

国内あちこちの温泉巡りもローマ観光も同じですよ。
費用の差はスケジュール次第。知恵の絞りどころ。老人は貧乏くさい旅はヤメましょう。多少は贅沢に。時間はたっぷりあるから、余裕あるプランを練る。
最初の1回目をクリアすればあとは簡単至極。

荷物も少なくてすむ夏がいい。お盆前後を外すのがベスト。
機内持込み可に収まるバッグ1ヶで十分。

 
古代ローマ人は戦争ばかり。何千年も前からかぎりなく残虐な戦いを続けてきた。敵とみなせば、即、殺す。それが一生の仕事だった。
現代ローマ人もたっぷりその先祖の血を引いているから、何かと気をつけよう。
生き馬の目を抜く技量にたけている。

来る日も来る日もバトル、バトルに勝ち抜いたのがローマ人の歴史です。


 ローマ見物?半日、精々1泊して駆け足で市内を回ってローマには行ってきたという人、結構回りに多いでしょう?
ローマ市内の古代パンテオン。夜の散歩がいい。


成田からローマのフウミチーノ空港へは12時間半のノンストップの旅。
たっぷり寝る時間があるので不眠症の人は睡眠薬を。そしてローマ着。
税関をでると、プラカードを掲げたイタリア人のおっさんが目にはいる。
自分の名前を確認して車に乗る。
初めての土地を尋ねるときは出迎えが必要かな。
バス利用は2回目から。
現地旅行社に頼んだ有料のガイドに送って貰う手もある。費用が多少高くなる。

運転は乱暴。もっとも当の運転手は平然としたもの。

タクシー代はすべて45ユーロと決まっている。

英語は判らなくても大丈夫。

ひとり旅では昼は現地主催のツアーに参加するのがベスト。
ガイドの英語の説明は判らなくてよろしい。
なにをいってるかは事前の日本での勉強で頭にはいってるからね。
でも片言くらいは判る。それで十−分。
全く予備知識の無い人は現地の日本人ガイドのツアーに参加を。
ガイドは老人の男がいい。なんてたって経験豊富だから。
若い女性が男にとってはいいに決まってるが親切度は男のガイドが上。
 

さてさて問題が発生する。夜の食事をどうすごすか。

毎晩夕食一人ではつまらないですね。
これが一人旅の大問題点。
 夕食は誰か相棒がいないとね。一人ではわびしい。
出発前に現地ガイドをツアー会社に頼んでおく。
食事だけ一緒してくれる美女もいる。ゴチおごってさらに車代払って飯食ってハイ、サイナラ。
それが一人旅の外国ツアーっていうもんですね。


何をするにしても異性に頼み事して金のかからない方法は見つからない。
アベックの食事はあきらめて安い庶民的な店で一人でたべる。さみしいね。
しかたない。日本人の店員相手におしゃべりが安全か。

現地で一人旅の日本人の仲間を探す?これは不可能。

見知らぬ日本人同士が海外で顔を合わしてもお互い口をきかない。
それが一人旅の宿命というもので、越えがたき垣根なんです。
うっかり気楽に声をかけては睨まれる。


南国ローマは暑くてと心配している方、安心です。
真夏はローマ見物にはもってこいの季節です。
暑いけど、天候が安定してはるか高く青空がどこまでも続いてる。
涼風が吹き始める夕暮れは日本の秋のような空気に包まれるゴールデンタイム。
散策と旨いディナーのレストラン探して歩くには絶好のシーズン。
ホテル屋上のレストランから巨大寺院のドームが見えるレストランなら最高。

テェベレ川沿いの屋台で食べるのも一興ですよ。 夏はこんな店や屋台が大量に出店する。

下町の古い建物に囲まれたレストランも趣がある。張り出したテント。その空間のなかに雑然と並ぶテーブル。まわりはほっとした顔そして顔。旅の風情があふれて。


こんなコック達の作る料理は最高。
 真夏のローマは悪くないが、8月のローマ市内の正午の気温は39度と路上のデジタル時計の数字が黄金色にかがやいていた。
しかし空気が乾いているので日陰にはいるとほっとする。
気温がピークを過ぎるのが午後5時すぎ。
直射日光に照らされ燃えた歩道を歩き回る場合は水分補給に気を配ろう。
夕食後はちょいと外出してビットリオベネト通りに足を伸ばす。
有名なカフェド.パリかハリーズバーの屋外テラスがいいですよ。
夕食は結構旨い。
ここなら一人でも可。
ただし誰も誘ってくれないし、女性には無視されるだけだけ。
店内の椅子に座ってコーヒー飲むと3千円。


コーヒー飲んだらビットリオベネト通りを散歩しよう。良いですよ。しかし、恋人は愚か女の影もいない一人の夜の散歩は一段と孤独感を煽られるので、やめた方がいいでしょう。
年寄りはやはり昼間がいい。いろいろな店のウインドウショッピングで時間潰しが出来るし、カフェで独りでいても怪しまれない。

 宿泊したホテルはバルベリニーニ広場に面してる。ここからは5~6本の幹線道路が放射状に走り抜けている。システィーナ通も走っている。そしてその先に、有名なハスラー、インターコンチネンタル、等の超高級ホテルが並んでいる。広場からこの通りをゆっくり歩いて約10分、両側を狭い歩道に挟まれた一車線の狭いシスチーナ通りの坂道を上りきるとスペイン広場に到達する。スペイン広場の景観を見終ったら、足をそのまま延ばしてポポロ広場には是非行こう。


だだっ広い広場だけど、全体の醸し出す雰囲気と彼方のポポロ門が歴史の重みを伝えてくる。
ポポロ広場こそローマ随一の必見の場所。
世界史の出発点の広場ですよ。


美術館の見学:
現地のタクシーの運ちゃんは美術館には興味無いから場所は知らない。目的とする美術館名と
住所と地図を一緒に渡し場所を必ず確認させてから出発すること。


1.ヴァチカン美術館。 

バチカン美術館はローマに足を踏み入れた以上はやはり見物にいこう。

全行程は3時間が普通、最短でも2時間半。
スタートに日本語のガイド(日本人)が何時間かかると言うので、
事前の予約時間と合っているか確認すること。
日本人は束ねて集められる。どのエイジェントに申し込んでも同じ。
ラファエルの間は案内人がオミットしてしまうことが多いので注意。

2.ボルゲーゼ美術館
3.カピトリーニ美術館

4.2カ所のローマ国立博物館(テルミニ駅そばとナボ−ナ広場そばの2カ所)

5.ド―リアパンフィーリ美術館
6.バルベリーニ宮殿内の国立美術館 
以上の超有名美術館はさすがに傑作多し。
前もってよく絵の勉強をしておくこと。
美術館内には絵を解説したパンフレットはなし。カラバッジョの名作あり

館内は撮影禁止だから重いカメラを持ち歩いてもね。 

カラカラ浴場跡地での恒例のオペラ見物;
アイーダか、カルメンが背景の舞台装置にぴったし。
会場のスケールはさすが雄大。
ツアー客は最後尾の最上段のカラカラ浴場全体を見渡せる眺めのよい席。
上着がないと途中からは寒くなりました。

現地のホテルに頼めばもっといい席が幾らでも手に入る。
日本で予約する必要なし。

ただし帰りのタクシーの手配が可能なら。
夕暮れ時の(午後8時過ぎからの)カラカラ浴場周辺の景色はさすが。
巨大な遺跡の壁が闇を貫く光芒に照らされ幻想的である。

午後8時頃から9時過ぎまでがベストタイム。
真っ昼間に見物して歩いてもあまり感激しませんよ。


 

飢餓遺伝子と人類の歴史

2014/11/13

飢餓遺伝子と人類ー2


1. 狩猟時代ー氷河時代は主として大型野生動物の捕獲であったが比較的豊かな食活を享受できたといわれる。
2. 採集時代-ーー狩猟プラス植物類、果実類、貝類等の採集が混在した時代
3.  農耕と牧畜時代----1万年前から現代へ
4. ヨーロッパに住むコーカジアンも厳しい気候変動と 繰返す飢餓により困難な食生活をしいられた
5. 日本では弥生人により約2000年前から稲作が開始されたが、中世、近世、明治まで断続して頻回の飢餓に見舞われた


<1万年前の生活と 農耕の始まり>
 氷河時代の寒冷期はマンモスや大鹿、野牛等大型獣の狩猟が主であり、温暖期に変ると植物の実の採集と草原の小型動物の狩猟が主であった。
この時代、人類の生活を大きく左右したのは不規則な寒冷と温暖の数十から数百年単位の変動。
繰返す雨期と干ばつと洪水など自然環境は人類に対して危機的猛威をふるった。
1万年前のヨーロッパ大陸は南部は地中海気候帯、西部は海洋性気候帯、東部と北部は大陸性気候帯に属しこの移行帯は 大きく変動し続け、寒冷期は北アフリカ海岸線に、温暖期にはバルト海にまで北上した。
この移行帯は5~600年の単位で変動したと言われている。

 農耕前は、動物源としては哺乳動物、鳥類、爬虫類、昆虫そして海産物、食べられる動物の死体などであり植物性食材としては豊富な野生の植物類(蜂蜜も含む)であった。
やがて人類は次第に単なる採集から利用価値の高い食物栽培の技術を獲得し、能率よく食材を手に入れる事が可能となった。
約1万2千年前、農耕が中近東西部で始まり、6000年前にはヨーロッパへと波及した。
一般にヨーロッパは寒冷であり、ことに北部地方は農耕には不適の土地で、
耕作にかわって牧畜が代用た。

流通は未発達、有効な交通手段を持たなかった当時、飢えと栄養不良は当然の結果であった。
そのような時代に農耕の開発はそれまでの狩猟採集民族としての人類にとってまさに革命的転換点なった。

 農耕は大量の穀物生産を可能とし、人口増、過剰な穀物の蓄積を産み、集落や都市が形成され、緩やかな流通経済も成立させるにいたった。
しかし、同時に集落形成は環境面では、細菌やウイルスの巨大な培養基となるマイナスをもたらした。
その結果は 天然資源に欠けた土地が産み出す栄養価の低い植物の生産と、人間の身長の短縮であった。
紀元3500年前頃にメソポタミア地方に都市が出現し、現代の歴史の幕あけとなった。
鉄器時代にはいいると、食料と人口増を維持していくため、土地は多数の領土に分割され、その土地をまもるため、居住をかねた要塞も多数構築されてきた。
こうして民族の群雄割拠の状態が出現し、人類の絶え間ない近隣部族同士の戦いの時代へと突き進んだ。


<饑餓遺伝子を考える>
 最近はこの言葉はあまり使われなくなりましたが、なかなか本質をついた日本語だとおもいます。
 氷河期、旧石器時代に寒冷地帯にすむ人類は食物資源確保のため狩猟ー採集の為に1年間の大部分をついやした。しかも食材としてのマンモスやトナカイ等は年間を通じて規則的に獲得することは不可能であり、彼等の食生活のサイクルは飽食と飢餓のサイクルも多かったと推測されるのです。
すなわち年間を通じて大型動物を捕獲した数ヶ月間の飽食と食べ尽した後の飢餓の日々(雪中に保存し長期に利用もした)の繰り返しであった。
 しかしこれは狩猟ー採集民族の生活の一断面にすぎず、狩猟?採集民達は当然ながらあまりに気候が寒冷化すると生存可能な緯度まで撤退し、安定した生活環境地帯に逃れたのである。
いずれにしろ過酷な環境に打ち勝って生き延びるために人類は如何にして生存のエネルギーを確保しえたのでしょうか。
 有名なアメリカの集団遺伝学者故Neel博士は人類生存の防御機能として饑餓遺伝子 の概念を1962年に提唱しました。
すなわち「 氷河期、飢餓と満腹サイクルを繰返し生きた古代人が、自己のエネ ルギー利用と貯蔵の効率を高めるに獲得した遺伝子が
節約遺伝子(饑餓遺伝子)である」と。
この遺伝子を獲得できないと厳しい自然を生きられずと言う訳です。

 伝統的な生活習慣から急速に西洋風のライフスタイルを強制された北アメリカに住むピマインディアン、南太平洋島々の住民、オースト ラリアのアポリジニなどで肥満、糖尿病などが激増した事実を解明するうえで饑餓遺伝子説は妥当として
現在にいたるまで支持されています。

 
 Neel博士は1962年に上記の論文を発表しましたが、1999年には「”it is now clear that the original thrifty genotype hypothesis, with its emphasis on feast or famine, presented an overly simplistic view」

と前論文を若干訂正しています。
 博士は同じ地域で同じ食生活を送る白人系アメリカ人よりピマインディアンに糖尿病罹患率が高頻度に発生した理由を1万年前の特別な遺伝子の発現にもとめたのです。

<ネイティブアメリカンと饑餓遺伝子>
 1万8千年前、海で埋没する以前、シベリアからモンゴロイドがベーリング海溝沿いに数十人ずつの単位でアメリカ大陸へ渡来してきた。
彼等パレオインディアン達の子孫の一部がピマインディアンです。
約1万年前とほぼ変わらぬ生活様式を維持して来た。
 1830年、アメリカ議会はアメリカ本来の住民である東部在住のアメリカインディアンの強制移住法を成立させ、
1870年以降には西部のインディアン達も全米各地に移住させました。
さらに1887年後は、彼等のライフスタイルそのものをを強権的に西洋化させたのです。
うしてインディアン部族は固有の伝統的な生活と文化をうばわれたのです。
やがて強制移住させられた限られた地域に住む彼等の間に肥満と糖尿病患者が世界一の高頻度に発症し(50%と)、アメリカはじめ世界中の糖尿病専門家の注目をあつめることになりました。
当時、北米にはインディアンは500以上の部族が居住していたといいます。
 一方、アラスカに居住する北極圏のイヌイット族やメキシコに住むアメリカインディアンにはこのような事実は認められていません。伝統的な生活習慣をもち続けた結果、糖尿病発症率はわずか3%に過ぎないのです。
しかし、彼らに対してもここ最近の10年来の自然と生活環境の変化の与える影響は大きい。
わずか数十年のヨーロッパ風の生活スタイルを送っただけで次の世代に糖尿病が多発したのですから。
 歴史的に飢餓に悩まされて来たのは当然ながらアメリカに住んでいたこれらパレオインディアンに限らず高緯度の寒冷地で生活してきた地球上の人類に共通の事実です。
ことにヨーロッパ北部はシベリア並に寒かったのです。
1万年前から19世紀初頭まで絶えず飢餓に苦しんで来たヨーロッパ在住のコ−カジアンを、なぜか現在にいたるまでヨーロッパの人類学者達は饑餓遺伝子の研究対象として取り上げてきませんでした。
科学的に見ても不思議なことですね?

 コーカージアンは生まれつき先進的かつ文明化された民族であったので飢餓遺伝子とは無縁であるとの人種差別的な優越感がヨーロッパの考古学界を支配しているからです
ヨーロッパではそれで饑餓遺伝子の研究の矛先を自分達の祖先には求めず、未文明の世界に求めているのです
 農耕開始の初期から近世まで、ヨーロッパの人口の90%を占めて来た農民が常に飢餓の脅威にさらされていたのは歴史的事実であり、彼等は狩猟採集民より飢餓の危険に曝されながら生延てきたとの学術論文も多いのですが。

<人類の活動> 人類は古代型サピエンスの時代になると大脳が急速に発達しました。 
人類が肉の味を自覚したのは250万年前ごろと推測されています。この動物性の食材利用が脳のサイズを拡大し機能も成長させたのです。
同時に肉体を確実に成長させた。
この大脳の肥大化が人類として長く生き残る要因となった訳です。蜂蜜や果物や穀物などの採集により脳細胞が必要とするブドウ糖が常に供給された結果、より優良な遺伝子を現代へと残し得たのです。

 3万年前以降の人類の各種生理機能は骨格構造とならんで、
現代人にひきつがれています。

人類を取巻く自然環境の巨大な圧力が人類の生存に大きな影響をあたえ、
如何にして人類の遺伝子の変化、

変異をもたらしたかは正確には不明です。

 紀元300年から600年にかけては天候不順と厳冬で人類は生存の危機にさらされましたが、その危機を脱した西暦900年前後、移行帯が北に移動し安定した温暖気候に変わったことからヨーロッパは生き返ったのです。以降の1300年末までの400年間、ヨーロッパは温暖化の時期を迎えたのです。そしてようやく農業と牧畜で食料の自給自足が可能となっっていったのです。
この期間は中世ヨーロッパの豊かな時代として400年間続いたのです。

この豊かな社会秩序のなかでヨーロッパ各地に壮大なゴシック建築群が出現したという訳です。

 

 

21世紀はどうなる:

 2003年に世界糖尿病機関が発表したデータによると、1995年に全世界の糖尿病発症は4%であったのが2010年には5.4%にまた2025年には7.6%に増加する。
発展途上国では3.8%から4.9%の増加ト報告しています。
そして患者総数は2025年には全世界で3億人。
先進国では5100万人から7200万人の42%増加。
一方、発展途上国では8千4百万人から2億2千2百万人と絶対数はふえますが、
総人口が遥かに多いので(アフリカ等)比率は先進国に比して小さいのです。
 1990年ごろ、フランス、ドイツ、イギリス、オランダの糖尿病罹患率はそれぞれ2%前半でした。そしてIDF の2003年の発表では、それぞれの国で6.2, 10.2, 3.9, 3.7%へと増加した。
さらに2025年には7.3, 11.9、4.7、5.1%に増加すると予測されています。
2000年以降、スペイン、ポルトガル、イタリア、スイス、北欧諸国、
ロシアでは全人口の8~10%以上です。

世界的な糖尿病増加の巨大潮流のなかに今やヨーロッパも完全に飲みこまれました。
21世紀、世界で最も高い増加率を示すのは中国の68.5%、インドの59%増で、今後、経済発展の高い地域においての増加が突出することになります。
年令による糖尿病罹患率を検討してみると、先進国では高齢者人口増に比例して60歳以上の糖尿病の増加が特徴的なのにたいして、発展途上国は働き盛りの中高年者40から50歳までの罹患率が最も高いのです。この相違の原因は現在なお不明です。
 1995年以前、ヨーロッパ諸国のイギリス、ドイツ、オーストリア、イタリアにおいては糖尿病の発症率たかだか2%台であり、北アメリカやオーストラリアの8%と大きな差が認められていました。1万年前から彼らの先祖はヨーロッパ各地にに住み飢餓遺伝子を共有していたのに何故このような差が生じたのか?
ジャレ.ダイアモンド先生当時ヨーロッパ大陸の市民階級の中で経済的に困窮していた下層の人だけが新世界アメリカ大陸に渡り現在のアメリカ人の先祖となった。オーストラリアへ移住したヨーロッパ人も同様であった。
 これら下層階級の農民達は常に飢餓にさらされ、低水準の生活であった。「渡米した 彼等は移住後も厳しい環境下での開拓、農耕作業を強いられ、
長い年月、飢餓的状況が続いた結果、彼らの飢餓遺伝子は消滅することなく
現在に至るまで活発に活動し続け、一方、ヨーロッパに残った人々は流通の発達により飢餓状態から脱し
食料不足で悩まされることは少なかった。すなわちヨーロッパ大陸に居残った人々は豊かな生活水準を保ちえたので飢餓遺伝子は存在しなかった

これは歴史を無視した珍説と言えませんか。
 現代なおヨーロッパの歴史、考古学界等の有力専門家や大家と言われる人達の中に歴史的事実に目をつぶり他人種を一段と低くみおろし、コーカジアン優位の論文を書く学者も少なからずいるという事実をしめす典型的な文章ではないでしょうか。
 現在、ヨーロッパ各国のコ−カジアン、ヨーロッパに居残った白人種において糖尿病が激増している事実をダイアモンド先生は今後どのように説明するのでしょうか。大いに興味ありますね。

 平均的なアメリカ人の食事は高脂肪(飽和脂肪),高タンパク、高砂糖食からなる高エネルギー食です。このような均一の高カロリー食が広まれば世界のどの地域においても遺伝子は同一パターンの変化をうけます。
いわゆるエピジェネティックな影響下になります。
 ヨーロッパでは昔から多種類の伝統的なローカル料理が各国で育まれて来ました。
その食文化は野菜類、ジャガイモはじめとする穀物中心の雑食であり、豚、鶏、羊等の多用により、脂肪間でのバランスもとれ、飽和脂肪の牛肉いっぺん党ではない伝統が多く見られた。しかし第2次世界戦後60年、ヨーロッパ各国においてもアメリカ文化の影響を強くうけてます。世界各地から農産物が輸入され、伝統的色彩を残していたコ−カジアン独自の食文化もアメリカ式食習慣に浸食され、発展途上国と変わらぬ状況へと変貌しつつあります。
その結果、ヨーロッパ各国においても都市部を中心に糖尿病罹患率が急上昇しています。

日本と全く同じ道をあゆんでいます

饑餓遺伝子と言う言葉は人類の歴史において依然として重要な意味を持つ言葉といえます。激しい饑餓が続区アフリカの人々の飢餓遺伝子はどう変化していくのでしょうか。
 地球最後の氷河時代を乗り越え、やっと農耕と牧畜で年間を通じて食料を確保できるようになった人類に刻み込まれたDNAが、約1万年かかって現代人の遺伝子の基礎を作り上げてきた。
 長い歴史において,過酷と快適と言う2面性をもつ気象条件が反復されると
摂取するカロリーは大きく変動し、遺伝子は環境に適合して変化し,幾世代に受け継がれていきます。人類は厳しい氷河期を生き延びる為に飢餓遺伝子を必要とし、
この遺伝子は環境の変 化により多型を産み,平等に地球上すべての人類に刻みこまれたのです。 
飢餓遺伝子の有無に人種差を示すエビデンスは見つかっていません
「コカコーラ化」(高脂肪と高タンパク質と大量の砂糖摂取食文化)によって、それまで発 展途上国にのみ限定的に活性化されてきた饑餓遺伝子が先進国においても、一斉に冬眠から復活覚醒し、ヨーロッパの先進国を先頭としてグローバルな糖尿病激増の主役として脚光をあびるにいたったという訳です。


 

糖尿病の歴史

2014/11/13
糖尿病の歴史をふりかえる 
 古代から中世そして近代へ、コーカジアンであるヨーロッパ人たちは一日何キロカロリーたべていたのでしょうか。
正確な数値を計算する事は不可能です。
厳しい階級社会が成立していたヨーロッパでは身分の相違により食べる量も質もまったく違っていたからです。
私ども日本人も過去の確かな数値は不明です。
世界各国の一人当たりの摂取カロリーの信用できる数値にはなかなか巡りあいません。
現代ですらこの有様ですから、まして,千数百年前の市民、農民そして商人が毎日何百、何千キロカロリー
食べていたという数字はまったくの推測にすぎません。
飢饉を繰り返してきた歴史。
一般人の食料摂取は寺院や役場の記録帳だけから推測は無理です。

市民一人当りにすると年間100キロ食べた筈だという科学的根拠のない推測をしています。
 中世の盛期である12、13世紀 にはヨーロッパ人は年間100キログラム以上も肉を食べていたとの説もある。
ペストはじめとする疫病と繰り返す飢餓で人口が減り農産物が出来なかったために
手間のかからない放牧に頼らざるをえなかった。
中世の何年間はその状態が続いたという推論は正しい。
しかし、冷凍、冷蔵技術のない時代、牛や豚は殺しては食い、殺しては食いの毎日?
第一、そんな裕福な農民がいたらの話。
大部分の肉は塩漬けで長期に保存しました。
肉食が主食であったこの短期間のヨーロッパでの話が、時を一致した大航海時代を通じて
ヨーロッパ人種は肉食人種という噂となり海外に伝わったのが真相のようです。

 第2次大戦後、一人当たりの所得が世界のトップクラス入りした日本人は、その経済力に見合っただけの肉食はしてきませんでした。21世紀も15年経過しても飽和脂肪の摂取量は増加し続ける事はなかったのです。
現代の日本人に糖尿病と肥満が増加しているのに、過去30年以上も平均摂取カロリーは2000キロカロリー前後、あるいはそれを下回ったままです。脂肪摂取量だけは伸びているからだと言われてます。
でもその絶対量は遥かに欧米人のはるか平均値以下であり,欧米では低脂肪食に分類される量です。
これは世界の7不思議の一つ?です。
 
 糖尿病の最古の記述はエジプトのパピルスまでさかのぼります。
人間の身体の中を血液は循環しているという事実が発見されたの は 1628年です。
産業革命が始まる前でした。
そのころになると化学の進歩によって尿を客観的に分析でき診断力も向上したからです。
紀元前から尿に甘い蜜のようなものがあるという事は古代エジプトでも 判っていましたが、
病気の単位として糖尿病が 正式に認知されたのは1674年のことです
イギリス人の 医師Thomas Willisが「甘い尿」をみつけ、甘い尿を持った病気をdiabetes-mellitus
と命名したのです。彼は「多尿(diabetes)と呼ばれていた尿量 の多い病気をdiabetes inspidus(尿崩症)、
diabetes mellitus(糖尿病)に分類して、現代に通 用する糖尿病の概念を確立したのです。 

それから約100年を経て、18世紀ようやく 近代工業が隆盛の兆しが見せ 始める頃、有機、無機化学を
始めとして生化学的手法を用いた研究 が医学に影響を及ぼしました。
尿中の糖が本物のブドー糖であると証明されたのは 1786年でした。
19世紀に入り 化学の素晴しい発展で、尿中のブドウー糖 の検出方法も確立し糖尿の有無が
糖尿病診断の決めてになりました。
1870年代以降、今度は尿糖だけを証明しても糖尿病とは正確に診断できなない事が明らかとなり、
血糖値が脚光をあびるようになります。
こうして糖尿病の診断もやっと科学的になりました。
そのご食事制限と運動療法が はじまったのです。
1870年のプロシャーフランス戦争が飢えが糖尿病を軽快する事実を明らかにし、
食事療法の幕開けとなりました。


既にこの古代ギリシャ時代から糖尿病は発症していた筈。

 

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